べっぴんさん モデル・史実 一覧

「べっぴんさん」のモデル紹介のコーナーと銘打っていますが、実は、登場人物とモデルとされている方々の史実は大きく異なっています。
それは、脚本家・渡辺千穂さんが、史実に基づきながらも「朝ドラ」として私たちに届けてくれた「すてきな物語」だったからでした・・・

【べっぴんさん・モデル一覧】

◇ 坂東家・坂東営業部・・・・・・【佐々木家】【佐々木営業部】 

*坂東五十八(すみれの父)・・・・・・佐々木八十八(佐々木営業部創業者)
*坂東 はな(すみれの母)・・・・・・佐々木 倆子(八十八の妻)
*坂東 ゆり(すみれの姉)・・・・・・三浦 智恵子(佐々木家の次女)
*坂東すみれ(ヒロイン)・・・・・・・・坂野 敦子 (佐々木家の三女)

・坂東営業部
*野上 正蔵(社長代理)・・・・・・・・尾上 設蔵(佐々木営業部・支配人)
*野上 潔 (正蔵の息子)・・・・・・尾上 清 (設蔵の子・レナウン初代社長)

◇ すみれの協力者と「キアリス」・・・・・・【ファミリア】と協力者 

*麻田茂男(あさや店主)・・・・・・・・元田 蓮 (モトヤ靴店・店主)
*小野明美(看護師)・・・・・・・・・・・・大ヶ瀬久子(ベビーナース)
*多田良子(すみれの親友)・・・・・・田村江つ子(ファミリア創業メンバー)
*田坂君枝(すみれの親友)・・・・・・村井ミヨ子(ファミリア創業メンバー)
*岩佐栄輔(潔の弟分)・・・・・・・・・・石津謙介+α(創作的人物)
*大島 保(大急百貨店社長)・・・・清水雅(阪急百貨店社長等)

◇ 夫と家族・・・・・・リアル夫・家族 

*田中紀夫(すみれの夫)・・・・・・・・坂野通夫(ファミリア社長)
*田中五郎(紀夫の父)・・・・・・・・・・坂野兼通(通夫の父・銀行家)
*小澤勝二(良子の夫)・・・・・・・・・・田村寛次郎(後年・ファミリア取締役)
*村田昭一(君枝の夫)・・・・・・・・・・村井 完一(後年・ファミリア監査役)
*坂東さくら(すみれの娘)・・・・・・坂野光子(坂野惇子さんの長女)

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べっぴんさんモデル・五十八/ 佐々木八十八さん(佐々木営業部創業者)

*べっぴんさん、坂東五十八のモデルとされる佐々木八十八氏のこと・・・

佐々木八十八(やそはち)氏は、坂野惇子さんのお父様で、現在も有名な「レナウン」の創業者です。
1874(明治7)年5月3日、佐々木家の長男として京都府京都市で生まれ、八十八夜に生まれた事から「八十八」と名付けられたそうです。

この佐々木家は、代々豪商として知られる名家で、当時は「和泉屋」というべっ甲商を営んでいたそうです。

八十八氏が14歳の時に父親が亡くなり、その後、自分で輸入販売の仕事をしようと考え、漢字や英語を猛勉強したそうです。そして、大阪の輸入雑貨店に入社したそうです。

その後、27歳の若さで独立し、1902(明治35)年、大阪で「佐々木営業部」を立ち上げます。社名に「営業部」と付けたのは、将来的には卸売業だけではなく、様々な事業を展開させていこうという考えから、基盤となる「営業部」と名付けて会社を立ち上げたのだそうです。

そこまで先を見据えていたとは、なかなかの企業家ですよね。
その後、佐々木家を継ぐはずだった異父兄が亡くなり、八十八氏が家督を継ぎます。そして、後に惇子さん達の母となる女性・雲川倆子(りょうこ)さんと結婚。三男三女を授かります。

元々は大阪に住んでいましたが、神戸市内に別荘を持ち、大阪から移り住みました。一代で大きな成功を収め、財を成した八十八氏は、その後、政界に進出。1931(昭和6)年からは貴族院の議員となり、戦後に貴族院が解散されるまで議員を務めたそうです。

そんな八十八氏ですが、実はとても潔癖症だった事で知られています。子供達の体調管理の為に毎日体温を計測、自宅で調理されたものしか食べさせない、お菓子にはアルコールを使い除菌、といった逸話が残されています。

また、娘の惇子さんが小学校に入る時には、自宅よりも北の方角にある私立小学校は通学時の北風が身体に悪いとし、自宅から近い公立の小学校に通わせたそうです。さらに、悪天候の日は強制的に学校を欠席させ、通学にはもちろん、遠足などの行事にも佐々木家の使用人を同行させたのだとか。

こういった事もあり、惇子さんはお嬢様という事で、学校では浮いた存在だったそうです。子供への愛情なのでしょうが、本人からしてみれば、少々ありがた迷惑のようにも思いますね・・・。

しかし、この潔癖症には理由があるようです。八十八氏は、幼い頃に父と兄を相次いで亡くし、さらに二人の我が子(長女と次男)も病気で亡くしています。
この経験から、健康に対する不安が大きくなり、それが潔癖になった原因とされています。

また、輸入業を手掛けた八十八氏は、西洋文化やハイカラなものが好きだったそうです。さらに、贅沢は良いが、無駄にしかならない浪費は嫌い、といったはっきりした方だったそうです。一代で大きな成功を収めた八十八氏は、1957(昭和32)年、83歳で永眠されました。

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べっぴんさんモデル・はな/ 倆子さん(八十八の妻)

*べっぴんさん、すみれの母・はなのモデルとされる倆子さんのこと・・・

佐々木倆子(りょうこ・旧姓・雲川)さんは、坂野惇子さんのお母様です。
1883(明治16)年1月、大阪府の雲川家に生まれました。兄には、雲川五兵衛氏がいます。相愛高等女学校を卒業し、佐々木八十八氏と結婚したようです。

その後、三男三女を授かります。ちなみに、惇子さんは三女になります。

性格は、よく笑う明るい女性だったとされています。そして、少々大雑把なところがあり、物事にあまり執着しない、サバサバした女性だったそうです。豪快な部分がある方だったのでしょうか。神経質で潔癖症だったとされる夫・八十八氏とは、正反対の性格と言っても過言ではないかも知れませんね。

そんな性格ですから、自分の息子のお嫁さんにも、自分の娘達と変わらない態度で接していたと言われています。気さくなお姑さんで、素敵ですよね。そして、思いつくとすぐに行動するというアクティブな一面もあったそうです。

また、工夫して物を作る事が得意という、発明家さながらのアイディアの持ち主でもあったそうです。性格を見てみると、ドラマの中の菅野美穂さん演じる坂東はなとは、大きく違うようにも感じますね。

そんな倆子さんですが、晩年には心臓の病気を患いました。その為か、和服の帯を締めるのは苦しいからと洋服を好み、よく楽な服装をしていたそうです。娘の惇子さん達は、母がそういった格好をする事をみっともないと、よく心配していたそうですよ。

倆子さんは、夫・八十八氏が亡くなってから11年後の1968(昭和43)年、賛美歌におくられながら、安らかに永眠されたそうです。86歳でした。

ドラマ上のはなさんは早逝されましたが、倆子さんは明治、大正、昭和の時代を生き天寿を全うされました。

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べっぴんさんモデル・ゆり/ 三浦智恵子さん(佐々木家の次女)

*べっぴんさん、すみれの姉・ゆりのモデルとされる智恵子さんのこと・・・

三浦智恵子(旧姓・佐々木)さんは、1905(明治38)年12月、佐々木家の次女として大阪で生まれました。坂野惇子さんの13歳上のお姉様です。

智恵子さんは、歳の離れた妹・惇子さんをとても可愛がり、よく面倒を見てくれたそうです。有名な話では、惇子さんが小学生だった頃には、いつも智恵子さんが洋服を選んであげていたとされています。

ところが、当時、惇子さんはお嬢様にも関わらず公立小学校に通っていた為、周りに馴染めずにいたそうです。そういった事もあり「レナウン」の派手な洋服など、他の子供達と違う上質な洋服を着せられる事をとても嫌がったそうです。

とは言え、姉妹の仲は非常に良かったようで、それはお互いが結婚した後も変わらず続いたようです。

智恵子さんは、神戸女学院を卒業し、東京の子爵だった三浦義次氏と結婚。東京に居を構えます。その後、長女・晃子さんを授かります。ここは、ドラマとは大きく異なります。

父・八十八氏は議員として東京に来る事も多く、その際には智恵子さんの家に宿泊する事も多かったとされています。そして、八十八氏はハイカラ好きで東京が好きだった為、議会が無い期間も度々東京を訪れ、その際にはいつも三浦家に滞在したのだそうです。

さらに、女学校を卒業した惇子さんが東京の学校に進学する事になった時には、智恵子さんは自宅に住まわせ、面倒を見たそうです。惇子さんは、そこから東京女学館高等科に通い、卒業しました。

その後に戦争が勃発し、東京の自宅は空襲の被害を受け、智恵子さん達は岡山へ疎開しました。夫・義次氏が岡山の勝山藩主・三浦基次の長男だった為、夫の実家である旧藩邸へ疎開したのだそうです。

そこでも、神戸で空襲に遭った妹・惇子さんの事を快く迎えてくれます。

終戦後は生活を東京に戻し、夫・義次氏は、1926(昭和元年)創業の「レナウン・メリヤス工業株式会社」の取締役、さらに「東京佐々木営業部」の監査役を任されました。その後、智恵子さんは1990(平成2)年に永眠されたとされています。
85歳でした。

以上の史実から、ドラマ上の姉・ゆりは「創作上の姉」として見たほうが良いようですね。

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べっぴんさんモデル・すみれ/ 坂野敦子さん(佐々木家の三女)

*べっぴんさん、ヒロインすみれのモデル・坂野敦子さんのこと・・・

坂野惇子さん(ばんのあつこ、旧姓・佐々木)は、子供服の専門店「ファミリア」の創業メンバーの一人で、ヒロイン・坂東すみれのモデルとなった女性です。

1918(大正7)年4月11日生まれ、兵庫県神戸市出身です。鎌倉時代の武将・佐々木高綱(たかつな)の血を引く名家で、豪商の家系である佐々木家の三女として生まれました。

父・佐々木八十八(やそはち)氏は、「佐々木営業部(現在のレナウン)」の創業者です。惇子さんは、名家のお嬢様として何不自由なく育ちました。
しかし、父が極度の潔癖症で、惇子さんはその影響を受け、少々つらい少女時代を送ったようです。

成長した惇子さんは、1931(昭和6)年、甲南高等女学校に入学します。そこで、一年生の時に、ファミリアの創業メンバーとなる榎並枝津子(後の田村江つ子)さんと出会います。その後、四年生の時に、後に夫となる坂野通夫(ばんのみちお)氏と出会います。

女学校卒業後、東京女学館高等科に進学。卒業後の1940(昭和15)年に通夫氏と結婚し、神戸市東灘区の「外国人村」と呼ばれる地域に新居を構えました。そして、その地でもう一人のファミリア創業メンバーとなる村井ミヨ子(旧姓・中井)さんと出会います。

やがて、1942(昭和17年)10月13日に長女・光子(てるこ)さんを出産。隣家に住むイギリス人女性・オーツ夫人から紹介され、ベビーナースとして働いていた大ヶ瀬久子さんと出会います。久子さんから学ぶそれまでの日本のやり方とは全く違う西洋式の育児法に、惇子さんは感銘を受けたそうです。

その後、戦争で夫は戦地へ召集されてしまいます。さらに、1945(昭和20)年、神戸大空襲で自宅と財産を失いました。惇子さんは、幼い娘を連れて姉・智恵子さんがいる岡山へ疎開し、間もなくそこで終戦を迎えました。

しかし、ドラマ同様に、この時はまだ夫の消息が分からないままだったようです。さらに、国の政策により、莫大な税金を取られ、預金も引き出せない状況となり、生活は困窮します。

幼い娘を抱え困った惇子さんは、父の元を訪ねます。そこで、幼馴染みだった尾上清氏から「お嬢様のままでは生きていけない。自分で働き、生きていかねばならない。」と助言されたそうです。

そして、父もこの意見に賛成し、惇子さんは困惑したそうですが、やがて、自らで生きていかなくてはならないと、働く事を決心したのだそうです。その後、終戦の翌年に夫が無事に帰還し、家族で岡山から兵庫へ移りました。

生活の為にと、惇子さんは近所の子供達の洋服を繕い、稼ぎにしようと試みました。ところが、商売の仕方がさっぱり分からない為、代金を受け取るという事ができずにいたそうです。

その頃、父・八十八氏が軽井沢の別荘を売りに出す事になり、惇子さんは置いていた自分の荷物を持って帰ってきます。その中に、西洋の毛糸や布地、惇子さんのハイヒールなどがありました。

この毛糸や布地を使い、惇子さんはミヨ子さん達と共に、得意だった洋裁で教室を開きます。しかし、やはり商売っ気の無い惇子さんは、またも現金を受け取る事ができませんでした。そして、教室を諦め、自分のハイヒールを売ってお金にしようと考えます。

1948(昭和23)年、新品のままのハイヒールを手に、神戸・三宮の「モトヤ靴店」へ。しかし、店主・元田蓮氏は、嫁入り道具として作った大事な靴なので売らないで欲しい、と断ったそうです。

そして、その時に惇子さんが持っていた手作りの手提げかばんや写真入れを見て、そういった手作りの品を売ってはどうかと助言し、自分の店の一角に置いてもよいと言ってくれたそうです。

早速、江つ子さんとその義姉・田村光子さんと共に、小物作りを始めます。さらに、大ヶ瀬久子さんから学んだ知識を活かし、ベビー用品も作りました。こうして、惇子さん、江つ子さん、光子さん、ミヨ子さんの四人で商品作りを進めていったそうです。

そして、1948(昭和23)年12月4日、モトヤ靴店の一角を借り、ファミリアの前身となる「ベビーショップ・モトヤ」を始めます。お嬢様育ちで商売に疎い惇子さん達を、夫達や元田氏が支え、次第に利益を得られるようになっていきます。

そして、翌年には独立して店舗を持ち、1950(昭和25)年4月には、フランス語で“家族”を意味する「ファミリア」に改名し、株式会社として始動するまでになりました。

その後、その品質の良さからファミリアの商品は人気を博し、皇室御用達の子供服にまで成長します。

惇子さんは、その後も社団法人ザ・ファッショングループの会長・理事を務めるなど、ファッション業界に大きく貢献されました。

その後2005年9月24日、心不全の為、永眠されます。87歳でした。

惇子さん達の「赤ちゃんとお母さんに誠実な製品を」という思いは、次の代へと受け継がれ、現在もファミリアの人気は衰えを知りません。

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べっぴんさんモデル・正蔵/ 尾上 設蔵さん(佐々木営業部・支配人)

*べっぴんさん、正蔵のモデル・尾上設蔵さんのこと・・・

尾上設蔵(おのえせつぞう)氏は、1887(明治20)年10月14日、兵庫県で尾上興三郎氏の次男として生まれました。

兵庫から銀行家を目指し、大阪に出ましたが、その後、知り合いの紹介を受け「佐々木営業部」に入社したそうです。その後、1911(明治44)年に、木寺トミさんと結婚されています。

設蔵氏は、数字に強く、非常に頭脳明晰な人物だったようです。そんな才能を佐々木八十八氏に見いだされ、26歳の若さで会社の支配人を任されるようになります。そして、八十八氏の右腕として重宝されました。

1918(大正7)年の第一次世界大戦の終結、さらに1923(大正12)年の関東大震災を受け、日本は不況の時代に突入し、経済が混乱していました。そんな不況の煽りを受け、それまでの手形取引を止め現金取引を選ぶ問屋が増える中、設蔵氏は手形取引を続行させました。

こうした事から、取引相手である百貨店から他の問屋よりも信用できると見なされ、一気に百貨店との取引を増やしたと言われています。

さらに、関東大震災の際には自ら船を用意し、関西にあった物資を関東まで運び、それを売って利益を出したという話もあります。さすが、八十八氏の信頼を得ていた人物ですね。八十八氏にも負けない先見の明があったのでしょう。

また、会社が「レナウン」の商標を得る為に尽力したのも設蔵氏でした。八十八氏が、イギリス皇太子の来日の際の御召艦「レナウン」を気に入り、これを会社の商標にしたいと言った事がきっかけでした。そして、必死に奔走した設蔵氏の努力が実り、1923(大正12)年、「レナウン」の商標を取得したそうです。

その後は、貴族院議員となった八十八氏に会社を任され、経営を担いました。1933(昭和8)年には「東京佐々木営業部」を立ち上げるなど、経営手腕を発揮。日本で最大と言えるメリヤス会社にまで成長させました。

そんな順風満帆の頃、1940(昭和15)年、設蔵氏は病で亡くなりました。54歳でした。彼の死後、戦争の影響もあり、佐々木営業部の業績は悪化し、吸収合併される事になっていきます。しかし、戦後、息子・清氏によって佐々木営業部は再建されます。

設蔵氏は、生涯、佐々木家に対して感謝の思いを抱き、佐々木営業部の為に尽力しました。そして、その思いは戦後に渡り、息子・清氏に引き継がれたのでした。

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べっぴんさんモデル・潔/ 尾上 清さん(設蔵の子・レナウン初代社長)

*べっぴんさん、潔のモデル・尾上清さんのこと・・・

尾上清(おのえきよし)氏は、1911(明治44)年5月23日、大阪府大阪市にて、尾上設蔵氏の長男として生まれました。

地元の中学校を卒業し、慶應義塾高等部に進学しましたが、学生時代は遊びが好きで女性に大変モテタそうです。また、当時学生だったにも関わらず、喫茶店を経営して稼いでいたという話もあるようです。この頃から、すでに経営の手腕を発揮していたようですね。

ところが、その為か勉強が疎かになり、慶應義塾大学への進学ができなくなってしまいました。そして、高等部を退学し、1933(昭和8)年、父・設蔵氏が支配人として働く「佐々木営業部」に入社したそうです。入社後は父親譲りの才能を発揮し、数年で常務に昇進したとされています。

しかし、1938(昭和13)年、召集され戦地へ。その二年後に無事帰還し、伊勢丹の二代目社長・小菅丹治氏の長女・喜子さんと結婚します。

1940(昭和15)年に父・設蔵氏が亡くなり、その後、会社が吸収合併されてしまいます。さらに、再び召集され、沖縄県の宮古島で終戦を迎えたそうです。

戦後は、佐々木営業部を吸収合併した「江商(現在の兼松)」の社長からの誘いを受け、入社。衣料部長となって勤務したそうです。

この頃、清氏は「有信実業」という会社を立ち上げ、日本軍が戦時中に備蓄していた物資を、闇市を通して人々に流通させていました。1946(昭和21)年、これが隠匿物資を扱った罪にあたるとされ、警察に逮捕されてしまいます。

しかし、私腹を肥やす為の行為ではないと認められ、すぐに釈放されたそうです。なんと、得た利益を貧しい人達に回していたといいます。本当に優しく、正義感の強い方だったのでしょうね。

その後、清氏は八十八氏から頼まれ、1947(昭和22)年9月、実質上無くなってしまっていた「佐々木営業部」を、「江商」から独立させる形で復活させました。

1951(昭和26年)になると、世間では民間放送が開始されました。それに伴い、清氏は「レナウン」の宣伝に力を入れ、新聞や雑誌、ラジオといった媒体を使って発信し、ブランド力を高めていったそうです。

そして、惇子さん達が「ファミリア」を立ち上げる際には出資し、さらに株主となり、応援してくれました。惇子さんの人生の中で、清氏は恩人だとされています。

晩年は、その功績から「ファッション業界のドン」とも呼ばれたそうです。その後、1988(昭和63)年2月9日、肺炎の為に亡くなりました。78歳でした。

清氏は、「佐々木営業部」を復活させ、「レナウン」という大企業にまで育てた人物なのです。

結婚相手は異なりますが、野上潔は、モデル像・尾上清氏にほぼ近いイメージで描かれているようです。

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べっぴんさんモデル・麻田/ 元田 蓮さん(モトヤ靴店・店主)

*べっぴんさん、麻田のモデル・元田さんのこと・・・

元田蓮(もとだれん)氏は、神戸・三宮の「モトヤ靴店」の店主で、名の知れた腕の良い靴職人でした。

神戸は外国人居留地があり、当時から洋靴の本場として有名な地でした。そんな神戸の中でも、元田氏の腕は評判でした。また、土地をいくつも所有していて、商売をする人に土地を貸す家主でもありました。

惇子さんの父・八十八氏は、西洋文化が好きでオシャレな人物だった為、そんな腕利きの元田氏が作る靴を気に入っていたようです。そして、元田氏は佐々木家に靴職人として出入りするようになり、いつも良くしてくれる八十八氏に対して深い感謝の想いをお持ちだったようです。

もちろん、佐々木家に出入りしていた頃に惇子さんとも出会っています。そして、時は流れ、戦後の混乱期。元田氏は惇子さんとの再会を果たします。

1948(昭和23)年、家計が火の車でどうしようもなくなった惇子さんは、何足もある自分の新品のままのハイヒールを売り、お金に換えてもらおうと考えます。そして、そのハイヒールを作ってくれた元田氏の店を訪ねたのです。

元田氏は、惇子さんとの再会をとても喜びました。しかし、自分が作った靴を売りたいという惇子さんの言葉にショックを受けます。そして、嫁入り道具として精魂込めて作ったその靴を、どうか売らないで欲しいと懇願しました。

困ってしまった惇子さんは、話題を変えようとして娘・光子さんの写真を見せます。この時の写真を入れていたケースは、惇子さんの手作りでした。その出来栄えに感心した元田氏は、こういった手作りの物を売ればお金になるのでは、と助言。さらに、自分の靴店の一角を貸すとまで言ってくれたのです。

元田氏は佐々木家に恩義を感じていた為、何とか惇子さんの力になりたいと思っての提案だったのでしょう。

こうして、その年の12月に「ベビーショップ・モトヤ」が始動したのです。元田氏は、商売の事を何も知らないお嬢様育ちの惇子さん達に、優しくも厳しく、商売のいろはを教えてくれました。

また、1950(昭和25)年に「ファミリア」を立ち上げた時には、初代の社長を引き受けてくれ、およそ3年に渡り社長の職を務めてくれました。そして、社長を辞任した後も、亡くなる直前まで「ファミリア」の取締役や監査役を務め、その後、1962(昭和37)年に亡くなりました。

元田氏は、惇子さん達4人の女性の人生を大きく変えたと言っても過言ではない程の方です。彼がいなかったら、もしかすると「ファミリア」は存在していなかったかも知れないとまで言われています。

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べっぴんさんモデル・明美/ 大ヶ瀬久子さん(ベビーナース)

*べっぴんさん、明美のモデル・久子さんのこと・・・

大ヶ瀬久子(おおがせひさこ)さんは、坂野惇子さんに西洋式の育児法を教えたベビーナース(育児を専門とする看護婦)です。「ファミリア」では、ベビーコンサルタントとして勤務されました。

1900(明治33)年、兵庫県揖保郡出身です。揖保郡立助産婦・看護学校、さらに、大日本実修女学会通信教育部を卒業。その後、1916(大正5)年に助産婦資格と看護婦資格を取得し、コウベインターナショナルホスピタル、日独病院に勤務しました。

そんな久子さんが惇子さんと出会ったのは、1942(昭和17)年、惇子さんが出産をした事がきっかけでした。惇子さんの隣家に住んでいたオーツ夫人の紹介で、久子さんが惇子さんに西洋式育児法を教える事になったのです。

そして、久子さんから教わったこの育児法が、後に、「ファミリア」の赤ちゃん思いの製品作りに繋がっていくのです。

しかし、この時のベビーナースの料金は、大阪商船に勤めるエリートだった通夫氏の月給90円を遥かに超える、なんと月額150円でした。ベビーナースという職業は、聞き慣れない方も多いと思いますが、外国では地位の高い職業として知られています。それ故に高給なのですね。

日本では、戦前、外交官や外国人の家庭を専門として育児を指導するベビーナースが活躍していたそうです。

ベビーナースは、1937(昭和12)年頃から日本でも「うつ伏せの育児法」を実践していました。惇子さんのご両親も、こういった日本よりも大きく進歩していた西洋の育児法に感銘を受け、久子さんの事を信頼していたそうです。

そして、惇子さんの姉・智恵子さんが出産した際にも、久子さんが育児法を教える事になったそうです。その後、神戸大空襲で勤務先の病院が被災。戦後は、独立してベビーナースとして活動されたそうです。

1961(昭和36)年、「ファミリア」を起業していた惇子さんが、久子さんに会社を手伝って欲しいと依頼し、入社します。その後は、ベビー相談員の育成や、育児についての講義の開講などで活躍し、「ファミリア」を支えました。

惇子さんからは、「育児において人間国宝級」とまで言われていたそうです。久子さんは、まさに赤ちゃんの事を知り尽くしたプロ中のプロだった訳ですね。

というわけで、敦子さんと久子さんは信頼関係からスタートしていました。ドラマ上の敦子(すみれ)さんと、久子(明美)さんとの確執は、物語上の創作ということになりますね。

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べっぴんさんモデル・良子/ 田村江つ子さん(ファミリア創業メンバー)

*べっぴんさん、良子のモデル・ 田村江つ子さんのこと・・・

田村江つ子さん(えつこ、旧姓・榎並)は、坂野惇子さんの女学校の同級生で、「ファミリア」の創業メンバーの一人です。「ファミリア」では、手芸を担当していたそうです。

江つ子さんは、1919(大正8)年2月、兵庫県神戸市で実業家・榎並充造(えなみみつぞう)氏の次女として生まれました。榎並家は代々神戸で質屋を営んでいましたが、江つ子さんの父・充造氏は、質屋は肌に合わないからと自ら会社を起こした人物です。

「阪東式調帯合資会社(現在のバンドー化学)」や、「内外護謨合資会社(後の内外ゴム)」を創業し、神戸商工会議所の会頭も務めた方です。

箱入り娘として育てられた江つ子さんは、1931(昭和6)年、甲南高等女学校に入学。惇子さんと同じクラスになり、意気投合します。その後、二人は生涯の親友となります。

女学校時代には、洋裁を学びました。そして、好きだった洋画も学び、いくつもの洋画展で入選する程の腕前だったそうです。

女学校を卒業し、1940(昭和15)年、繊維商社「田村駒」の創業者・田村駒治郎氏の次男・寛次郎氏と結婚。二人の子供を授かりました。

この寛次郎氏は、実は惇子さんの夫・通夫氏の学生時代の先輩だそうで、そういった事から、惇子さん一家と江つ子さん一家は家族ぐるみの付き合いで、とても仲が良かったようです。

ちなみに、江つ子さんと寛次郎氏の年齢差は四歳だそうで、その点はドラマとは大きく違うようですね。

そして、江つ子さんは出産後、惇子さんの薦めを受け、ベビーナースから西洋式の育児法について学んだそうです。

1944(昭和19)年頃、子供達を連れ有馬に疎開。神戸大空襲により、神戸の自宅を失いました。終戦後は神戸で借家に住み、その後、夫が戦地から帰還。厳しい生活を送る中、惇子さんから店を出したいと相談を受けたそうです。

そして、当時、洋裁の仕事をしていた夫の姉・田村光子(みつこ)さんにもこの事を相談し、三人で「ベビーショップ・モトヤ」を始める事になったそうです。しかしこの頃、江つ子さんのお腹には三人目の赤ちゃんが宿っていました。その為、女学校時代の友人・不破孝子さんに手伝ってもらったのだそうです。

江つ子さんの手芸は人気が高く、皇室の方からの評判も良かったそうです。さらに画家としても活躍され、とても才能溢れる女性だったようです。

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べっぴんさんモデル・君枝/ 村井ミヨ子さん(ファミリア創業メンバー)

*べっぴんさん、君枝のモデル・ 村井ミヨ子さんのこと・・・

村井ミヨ子さん(旧姓・中井)は、惇子さんの5歳下の親友で「ファミリア」の創業メンバーの一人です。「ファミリア」では、手編み部門を任されていたそうです。

ミヨ子さんは、1923(大正12)年3月4日、東京市麹町で中井栄三郎氏の三女として生まれました。未熟児で生まれ、ずっと身体が弱かったと言われています。

父・栄三郎氏は、「日綿実業(後の双日)」で東京支店長として勤めていた人物です。ミヨ子さんがまだ赤ん坊の頃に、父の転勤でビルマ(現在のミャンマー)に行く事になります。

ミヨ子さんの兄弟達は皆、両親の実家に預けられました。しかし、ミヨ子さんは身体が弱かった為、預けるのは心配だからと両親が看護婦を伴って一緒に連れて行く事にしたそうです。

さらに、次にはインドへ転勤する事になり、ミヨ子さんはインドでの幼い頃の思い出がたくさんあったそうです。

小学校に上がる年齢になり、ミヨ子さんは母と共に日本に帰国。そして、兵庫県の芦屋市で、兄弟達と共に暮らしました。小学校入学後は、風邪や肺炎を何度も患い、あまり学校に通えなかったそうです。

その後、神戸の松陰高等女学校に進み、松陰専攻科を卒業。卒業後は、華道や茶道、ピアノ、洋裁を習い過ごしたそうです。ちょうどこの頃、結婚して神戸に住み始めた惇子さん夫妻と出会います。

そのきっかけは、惇子さん夫妻がよく犬の散歩をしていて、そんな二人を素敵な夫婦だなと思っていたのがミヨ子さんでした。

ある日、通夫氏がミヨ子さんに子犬はいらないかと聞き、犬が好きだったミヨ子さんは譲り受ける事にしたそうです。こうして、惇子さんとミヨ子さんが知り合い、仲良くなっていったのだそうです。

その後、1944(昭和19)年、大阪府・船場の旧家・村井家の完一氏と結婚。完一氏は陸軍の中尉だった為、戦争で外国に派遣される事はなく、内地勤務でした。さらに、自宅も運良く被災を免れたそうです。

戦後、子供がいなかったミヨ子さんは、よく惇子さんの自宅を訪ねて惇子さんの娘・光子(てるこ)さんと遊んだそうです。そんな親交もあり、惇子さんは「ベビーショップ・モトヤ」を立ち上げる時にミヨ子さんも誘います。

しかし、身体が弱かった為、主治医に反対されたそうです。それでも家族は応援してくれ、皆の協力を得ながら参加する事になります。

最初の頃は熱を出したりしてつらかったそうですが、働くうちに次第にその回数は減っていき、だんだん元気になっていたのだそうです。仕事というやりがいを見つけて、パワーが出て来たのでしょうかね。

そして、ミヨ子さんが作る編み物は温かみがあると言われ、店の人気商品となりました。その後は、会社の常務取締役も務めたそうです。

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べっぴんさんモデル・栄輔/ 石津謙介さん+α(創作的人物)

*べっぴんさん、栄輔のモデル的・石津謙介さんのこと・・・

岩佐栄輔は、特定のモデルがいるわけではありません。その当時関係していた複数の人物像を基に、創作された「ドラマ上の人物」となります。

今回は、その中でも潔(モデル・尾上清)との接点で栄輔のモデルの一人ではないかと言われる、石津謙介(いしづけんすけ)氏のプロフィールを紹介いたします。

石津謙介氏は、岩佐栄輔のモデルの一人と言われる人物で、「ヴァンヂャケット」を創業し、VANブランドを立ち上げたファッションデザイナーです。

1911(明治44)年10月20日、裕福な商家の次男として、岡山県岡山市で生まれました。明治大学の商科専門部を卒業後は、実家が営む紙問屋を継ぎました。しかし、戦争の影響で経営が悪化。

1939年、妻と子供達を連れ、中国・天津へ渡りました。当時の中国には天津などの租界都市(外国人居留地)があり、欧米の文化に興味があった石津氏にとっては憧れの地だったようです。そこで、知り合いだった大川正雄・照雄氏の兄弟が営んでいた大川洋行で服飾の仕事に携わります。

ちょうどその頃、召集され天津に派遣されていた尾上清氏と出会い、同じ歳だった事もあり、仲良くなります。二人でよく上海の街で遊んだとも言われています。やがて終戦を迎え、戦後しばらくは、天津で覚えた英語を武器にアメリカ兵の通訳をして生活していました。

この時に、アメリカのファッションについて学んだと言われています。その後、1946年に家族と共に帰国しますが、財産は全て失っていました。

帰国後は、清氏が立ち上げた「有信実業」に入社し、隠匿物資の闇市への横流しなども手伝ったそうです。これは決して自分達の私腹を肥やす為ではなく、得た利益は貧しく困っている人達の為に使ったそうです。清氏と同じく、石津氏も情に厚く豪快な人柄だった事が窺えます。

その後、「佐々木営業部」に入社し、1949年にはレナウンサービスステーションを任されますが、一年程で閉店。後に、その跡地に坂野惇子さん達の「ファミリア」が入る事になります。

1951年に会社を辞めて独立し、男性衣料を扱う「石津商店」を立ち上げました。その後、社名を「ヴァンヂャケット」とします。1955年には、男性向けファッション誌「男の服飾(後のメンズクラブ)」を創刊。

この雑誌では、高倉健さん、菅原文太さん、仲代達也さん、岡田真澄さんといった当時の名優達がモデルを務めていました。雑誌にはVANブランドやアイビールックが掲載され、流行となります。ちなみに、“VAN”とは、前衛や先駆を意味する英語のヴァンガード(Vanguard)から取ったそうです。

その後、1978年に会社が経営破たんします。清氏からレナウンに戻らないかと声を掛けたそうですが、それを断り、服飾評論家、デザイナーとして活躍されました。
石津氏は、いつも気に掛けてくれた清氏の事を、兄貴のような存在だったと話したと言われています。

“日本のメンズファッションの生みの親”と呼ばれた石津氏は、ファッション業界に大きな影響を与えた人物です。今では当たり前に使われている「Tシャツ」や「カジュアル」、「TPO」といった言葉を定着させたのも彼でした。また、警察や国鉄、日本航空などの制服のデザインも手掛けたそうです。

石津氏は、2005年5月24日に永眠されました。93歳でした。

ファッションに最期までこだわり続け、寝たきりになってもパジャマを着ることを拒み、三宅一生デザインのシャツを着たまま息を引き取ったとの、逸話も語り継がれています。

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べっぴんさんモデル・大島社長/清水雅(阪急百貨店社長等)

*べっぴんさん、大急百貨店・大島社長のモデル・清水雅さんのこと・・・

大急百貨店の社長として、すみれ達のキアリスや潔達のオライオンにも力を貸してくれるのが、大島保です。この大島社長のモデルとなっている人物が、清水雅氏だとされています。

清水氏は、1901年2月12日生まれ、大阪府大阪市出身です。慶應義塾大学の経済学部を卒業し、その後、ドイツやアメリカに留学しています。

日本に帰国した後、1928年に、阪急東宝グループの創業者・小林一三氏に誘われる形で阪急電鉄に入社。大阪で実業家として活躍していた父・栄次郎氏と小林氏の間に親交があり、その縁もあって声を掛けられたようです。

入社後は阪急マーケット(後の阪急百貨店)に勤務し、その後は小林氏の右腕として才能を発揮させていきます。戦後間もない1947年に、阪急電鉄から分社する形で株式会社として創設した阪急百貨店の初代社長に就任します。

その後、1952年には同じ阪急東宝グループの一つである阪急共栄物産の社長に、1957年には経営が傾いた東宝の社長職に就いて東宝を持ち直させています。この事から、“東宝中興の祖”とも言われたそうです。また、同年には阪急百貨店の会長職に就いています。

その後も、1966年には東宝の会長、1968年には阪急電鉄の会長となり、毎日放送の取締役や、後楽園スタジアムの取締役なども務めたそうです。こうして見ると、実業家として本当にものすごい経歴をお持ちの方だという事が分かります。

キアリスのモデルとなったファミリアがまだ創業したばかりの1950年に、清水氏がファミリアを見つけてくれました。

この頃、清水氏は夫人・ミナさんと共によく神戸を歩いていたそうです。これは、どうやら他の百貨店の視察も兼ねていたそうです。ある日、いつも通り神戸を歩き、その帰りにたまたまファミリアの店を見つけます。

店内に入り商品を見て、すぐにこれは良い店だ、と直感したのだそうです。そこから、すぐに阪急百貨店の販売部長に、ファミリアの商品を仕入れなさいと伝えたそうです。

実は、この販売部長の鳥居正一郎氏は、惇子さんの夫・通夫氏の帝国大学時代の先輩でした。そこから、通夫氏を通じて話がまとまり、最終的には阪急百貨店にファミリアの直営店を出す事となったのです。これは、なんとファミリアが設立されてからわずか1年の事です。

ドラマと同じように、ファミリアにとって清水氏は恩人なのですね。
また、1954年には、阪急百貨店で成功しているファミリアの噂を聞きつけた高島屋が、東京の店舗に出店しないかとファミリアに持ち掛けてきました。

この時、通夫氏から相談された清水氏は、ライバルである高島屋への出店を止める事はなく、文句を言う事も一切無かったそうです。ドラマの中でも、同じような話が出てきましたね。このエピソードから、清水氏の経営者としての器の大きさが分かります。

さらに、1956年には阪急百貨店が東京に進出、銀座に数寄屋橋阪急を開店させます。この時、ファミリアも同店に出店し、これが東京での初出店となりました。

ちなみに、惇子さんの長女・坂野光子さんも清水氏をとても尊敬していたようで、自身の次男・雅氏の名前は、この清水氏からとって名付けたそうです。

清水氏は、1994年12月24日、93歳で永眠されました。

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べっぴんさんモデル・紀夫/ 坂野通夫さん(ファミリア社長)

*べっぴんさん、紀夫(すみれの夫)のモデル・ 坂野通夫さんのこと・・・

坂野通夫(ばんのみちお)氏は、1916(大正5)年9月30日、兵庫県芦屋市出身で、父・坂野兼通氏は明治維新後に大阪の銀行界で名を馳せた大物。通夫氏はその七男として生まれました。

父は、通夫氏が14歳の時に他界しています。末っ子だった事もあり父に可愛がられて育った通夫氏は、幼い頃はわんぱくでガキ大将だったと言われています。

その後、甲南高校を卒業し、京都帝国大学の経済学部に進学。1940(昭和15)年に卒業し、海外勤務を希望していた事もあり「大阪商船(後の商船三井)」に入社。その年の5月に敦子さんと結婚し、神戸の外国人村に新居を構えました。

そして、1942(昭和17)年10月13日に長女・光子(てるこ)さんが誕生しますが、翌年には召集され、インドネシアのジャカルタへ派遣されます。

やがて、終戦の翌年に無事帰還。自宅が神戸大空襲で被災してしまっていた為、兵庫県尼崎の兄を頼り、借家で妻・惇子さんと娘・光子さんと共に暮らし始めたそうです。

仕事で大阪商船に戻りますが、戦争の影響で従業員が次々と辞めさせられている状況でした。その為、大阪商船を退職し、惇子さんの父・八十八氏や尾上清氏に誘われる形で、1947(昭和22)年に「レナウン・メリヤス工業」に入社。その後、清氏が再興させた「佐々木営業部」に移りました。

そして、ちょうどこの頃、惇子さん達が子供服店を始めたいという話になり、通夫氏はそんな妻達を応援し支えます。将来は通夫氏に「佐々木営業部」を託そうと考えていた清氏に引き止められながらもそれを断り、1952(昭和27)年に「ファミリア」の取締役となります。

そして、「佐々木営業部」で培ったレナウン商法を取り入れ、それまでの「ファミリア」の大雑把な経営法を刷新していったそうです。

また、この頃から輸入販売も開始させ、「ファミリア」は事業を拡大していきました。その後、1956(昭和31)年、正式に社長に就任します。1985(昭和60)年には「ファミリア」が創業35周年を迎え、この年に通夫氏は会長となり、社職には、長女・光子さんの夫・岡崎晴彦氏を就任させます。

そんな通夫氏は、プライベートではカメラが大好きだったそうです。数多くの写真を撮り、撮影した写真はいつも相手にプレゼントしていたそうで、また、アルバムもたくさんあり、保管されていた数は5000冊とも言われているそうですよ。

その後、1992(平成4)年6月2日、77歳で永眠されました。通夫氏は、女性の能力を活かした素晴らしい経営者として、今もなお知られる方です。

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べっぴんさんモデル・五郎/ 坂野兼通さん(通夫の父・銀行家)

*べっぴんさん、五郎(紀夫の父)のモデル・ 坂野通夫さんのこと・・・

坂野兼通(ばんのかねみち)氏は、「ファミリア」の社長や会長を務めた坂野通夫氏のお父様で、惇子さんの義父にあたる方です。

1863(文久3)年12月12日、幕末の頃に生まれました。愛知県の尾張藩士・坂野信一郎氏の長男として、名古屋市で誕生。

東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業し「三菱合資銀行部」に入行。やがて頭角を現し、大阪支店長の職に就きます。その後、「山口銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)」に移り、1910(明治43)年に同銀行の理事に就任、その3年後には総理事に就任されたそうです。

1917(大正6)年には、それまで個人銀行として経営していた「山口銀行」を株式会社として設立させました。さらに、1920(大正9)年には事業を拡大させ、「山口合資会社」を立ち上げ、兼通氏は理事に就任します。

この頃、日本は不況の時代に入っていました。1923(大正12)年に関東大震災が起き、それ以降、大阪の金融業界も不況の煽りを受けていたのです。

そんな中、他の銀行は企業への貸し渋りをするようになっていましたが、兼通氏は中小企業を助けたいと考え、企業への融資を打ち切る事なく続けました。この事で、大阪の多くの企業が救われたと言われています。

その後も「山口財閥グループ」のいくつもの会社で理事や会長の職を務め、大阪の銀行界では重鎮と呼ばれる大物の銀行家となりました。

そんな大物の兼通氏、さぞかし怖いお方かと思いきや、そうでもなかったようで、性格は温厚で、とても優しい方だったとされています。そして、お話好きで、揉め事が嫌いな平和主義者だったとも言われています。

また、プライベートでは将棋がお好きだったそうで、かなりの腕前だったとも言われています。

兼通氏は、1931(昭和6)年8月12日、息子・通夫氏が14歳の時に亡くなられています。69歳でした。通夫氏が惇子さんと知り合い結婚する時には、兼通氏は既に亡くなっていたのでした。

したがって、ドラマ上では息子の出征を見送り、その後も帰還を待つという件は、物語の創作となりますね。

ですが、惇子さんが「ファミリア」を立ち上げる際には、「三菱銀行」と「三和銀行」が「ファミリア」の主力銀行となってくれました。もちろん、重鎮とまで呼ばれた兼通氏の影響力は、想像に難くありませんね。

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べっぴんさんモデル・勝二/ 田村寛次郎さん(後年・ファミリア取締役)

*べっぴんさん、勝二(良子の夫)のモデル・ 田村寛次郎さんのこと・・・

田村寛次郎(かんじろう)氏は、「ファミリア」の創業メンバーの一人・田村江つ子さんのご主人です。

1914(大正3)年2月、現在も続く大手繊維商社「田村駒」の創業者・田村駒治郎氏の次男として、大阪の地で生まれました。妻・江つ子さんの5歳上になりますね。

甲南高校中等部、甲南高校を卒業後、京都帝国大学の経済学部へ進学。実は、寛次郎氏は中学校から大学までの学生時代、惇子さんの夫・坂野通夫氏の先輩だったそうです。

江つ子さんも惇子さんとは女学校の同級生で親友でしたから、この4人は、お互いの結婚後も家族ぐるみの付き合いが続いていたそうです。

そして、大学卒業後は「大日本紡績(後のユニチカ)」に入社しました。その後、1940(昭和15)年に結婚。1941(昭和16)年、当時、二代目社長に就いていた兄の頼みを受け「田村駒」の取締役に就任します。

この頃までの「田村駒」は、海外にも進出するなどして業績は順調でした。しかし、戦争で会社は全てを失ってしまいます。

寛次郎氏も召集を受け、中国へ派遣されました。その後、中国で終戦を迎えたようです。そして、終戦の翌年に帰還し「田村駒」に復職しましたが、そこで大事件が起きます。

社長を務める兄が、隠退蔵物資(かつて軍が所有していた物資を、不正に隠しておく物の事)を扱ったとして逮捕されたのです。

その責任を取る形で、兄は社長を辞任。急遽、弟の寛次郎氏が社長代行を務める事になったそうです。その後、兄は無罪が認められますが、会社として、世間の人々の信用は失っていました。

戦後は、兄の逮捕に加え国の政策もあり、会社の経営は非常に厳しいものでした。しかし、寛次郎氏の手腕で、何とか危機を乗り越えることができたそうです。

その後、1949(昭和24)年には兄が社長職に戻り、寛次郎氏は代表取締役専務の職に就きました。そして、妻である江つ子さん達が子供服の仕事を始めると、それを応援し支えてくれました。

1962(昭和37)年には「田村駒」を辞め「ファミリア」の取締役となり、惇子さん達の仕事を全面的に支えてくれたのでした。

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べっぴんさんモデル・昭一/ 村井 完一さん(後年・ファミリア監査役)

*べっぴんさん、昭一(君枝の夫)のモデル・ 村井完一さんのこと・・・

村井完一(かんいち)氏は、「ファミリア」の創業メンバーの一人・村井ミヨ子さんのご主人です。ミヨ子さんよりも13歳上で、モデルとなった2人は歳の差夫婦だったのですね。

完一氏は、1910(明治43)年、大阪府・船場で代々続いていた旧家・村井家にて誕生しました。大阪商業大学の経営学部へと進学し、卒業後は軍に入隊。その後、陸軍中尉となりました。

そして、1944(昭和19)年、親の決めた相手・ミヨ子さんと結婚。しかし、結婚前にはミヨ子さんが年の離れた完一氏との結婚を渋り、親の説得で嫌々結婚した、という話もあるようです。

この頃は戦時中でしたが、完一氏は軍隊勤務だった為、召集され海外に派遣される事もなく、内地勤務でした。さらに、空襲の際も自宅は被災する事なく、無事だったそうです。

しかし、戦後になると自宅は占領軍によって取り上げられてしまいます。その為、ミヨ子さんの実家の庭の敷地に家を建て、そこに移り住んだそうです。さらに、軍人だった完一氏は戦後に職を失ってしまいます。その後は、会社員として働いたようです。

2人の歳が大きく離れていた事、そしてミヨ子さんの身体が弱かった事もあり、完一氏はミヨ子さんをいつも気遣い、非常に優しいご主人だったようです。ミヨ子さんが、惇子さん達が始めようとしていた子供服の仕事に自分も参加したいと言った時も、完一氏は心配しながらも賛成してくれました。

しかし、ミヨ子さんの主治医が「働くなんてとんでもない!」と反対した為、一変して反対したそうです。その後、ミヨ子さんの父や周りの人の説得を受け、ミヨ子さんを支え、応援していく事を決めたのだそうです。

やがて、ミヨ子さんは週に3~4日のペースで惇子さん達を手伝うようになります。ミヨ子さんが帰宅する時間になると、完一氏はいつも店まで迎えに行っていたそうです。本当にミヨ子さんの事を大切に思っていたのでしょうね。

そして、働くうちに次第に健康になり毎日出勤できるようにまでなった妻の姿に、完一氏も非常に喜んだそうです。

また、数字に弱い惇子さん達に代わって、経理の仕事なども手伝ってくれたようです。その後、完一氏は「ファミリア」の監査役を務め、「昭産商事」の顧問も務めたのだそうです。

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べっぴんさんモデル・さくら/坂野光子(坂野惇子さんの長女)

*べっぴんさん、さくらのモデル・ 坂野光子(ばんのてるこ)さんのこと・・・

坂東すみれと紀夫の間に生まれた一人娘・さくらにも、モデルとなった方がいます。すみれのモデル・坂野惇子さんの長女・光子(てるこ)さんです。

光子さんは1942年(昭和17年)10月13日生まれで、父親である坂野通夫氏が戦争で出征する前に生まれています。光子さんが生まれたおよそ一年後、通夫氏は召集されてインドネシアのジャカルタへ行っています。

父親が戦争に行ってしまうというのはドラマと同じですが、その時期は少し違うようですね。

戦後には母・惇子さんがベビーショップ・モトヤを始め、お手伝いの宮本さかえさんが光子さんの面倒を見ていました。この宮本さんは、ドラマの中の喜代さんのモデルとなっているようです。

光子さんは、小林聖心女子学院に進学後、日本に来ていたハッチャー婦人と惇子さんの仕事の繋がりで知り合い、彼女に観光案内をしたりして仲良くなります。そんな縁もあり、大学を卒業した後、1年7か月の間アメリカに留学します。

この時、ワシントンに住んでいたハッチャー婦人を頼り、ホームステイさせてもらったそうです。

その頃に、アメリカのマンガ「ピーナッツ」と出合い、その中の犬のキャラクター・スヌーピーの可愛さの虜になります。留学を終え日本に帰国する時には、何冊ものスヌーピーの本を持ち帰ったそうです。そして、帰国後もそのスヌーピー好きは変わらず、自分でクッションやナプキンに刺繍を施す程でした。

そんな娘の影響を受け、両親である惇子さんと通夫氏も、いつしかスヌーピー好きになっていきます。そして、光子さんの「日本でもスヌーピーは流行する」という言葉を受けた事もあり、惇子さん達はスヌーピーの著作権を取得し、ファミリアの店頭にスヌーピーのぬいぐるみを置く事を決めます。これが1970年の事でした。

この事がきっかけとなり、ファミリアでは様々なスヌーピーの商品を扱うようになり、現在でも変わらず人気の商品となっています。

もしも光子さんがスヌーピー好きになっていなかったら、ファミリアではスヌーピーの取り扱いはしていなかったかも知れませんね。ちなみに、この頃、日本ではサンリオが既にスヌーピーのグリーティングカードを販売していましたが、ぬいぐるみを取り扱ったのはファミリアが最初でした。

その後、光子さんは、山崎豊子さんの小説「華麗なる一族」のモデルとなったとも言われている神戸の岡崎財閥の岡崎晴彦氏と1967年、24歳の時に結婚。岡崎家に嫁ぎ、長男・忠彦氏、長女・ミサさん、次男・雅氏の二男一女を儲けます。

父・通夫氏がファミリアの社長職を退いた後は、1985年に夫の晴彦氏が引き継ぎました。その後、2011年には光子の長男・忠彦氏が就任し、現在に至ります。

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