花山伊佐次のモデル花森安治(はなもり やすじ)さんとは

花森安治さんは、1911年(明治44年)生まれで、鎮子(しずこ)の9歳年上の人物でした。

天才と言われた編集者で、第二次世界大戦後には、日本読書新聞でイラストや挿絵を描く仕事をしていました。

花森は、日本読書新聞で編集長だった田所太郎(たどころたろう)氏と学生時代からの友人で、田所から頼まれて、日本読書新聞で仕事をするようになったようです。
 

花森安治と大橋鎮子の出会いとそれから

鎮子さんと花森氏の出会いは、日本読書新聞社内でした。その日は、鎮子さんが当時人気作家だった川端康成氏の原稿を新聞社に持ち帰るところでした。

鎌倉にある川端氏の家から急いで戻ってきた鎮子さんですが、下駄の鼻緒が切れてしまい、その場でしゃがみこみます。その時に、偶然そこにいた花森氏が鎮子さんに声を掛けようとしますが、鎮子さんは少しでも早く原稿を届けたいという思いから、下駄を手に走り去ってしまいます。

その姿を見た花森氏は「なんて女性だ・・・」と驚いたのだそうです。二人の出会いは、そんな、ちょっと衝撃的なものだったのですね。

それからしばらく経った頃、鎮子さんは自分で雑誌を作りたいという事を、上司である田所氏に相談します。田所氏は、花森氏に相談する事を鎮子さんに強く薦めます。

当時、花森氏とは顔見知りでしたが、挨拶程度しか話した事が無かった為、鎮子さんは少し悩んだと言われています。しかし、やはり雑誌を作りたいと決心し、花森氏に相談します。

花森氏は、その場で鎮子さんの依頼を快諾したそうです。鎮子さんの、今まで育ててくれた母や祖父に恩返しがしたい、という思いに共感したのだそうです。

翌日には、どんな雑誌を作りたいのか、などの話し合いを二人でしたそうです。そこで、当たり前の暮らしを大切にし、戦争を起こさない世の中にしたい、戦争で傷付いた女性達の為になるような雑誌を作りたい、という事を話し合います。

また、花森氏は、鎮子さんに結婚願望があるかどうかも尋ねたそうで、鎮子さんは「仕事を続け、結婚はしない。」とはっきり答えたのだそうです。この時から既に、結婚はせずに生涯家族を守る、という堅い決意が鎮子さんの中にあったのでしょう。

そして、鎮子さんは母と妹達に、雑誌の出版の件について話し、協力して欲しいと頼むと、家族は皆快くうなずいてくれたそうです。

1946年、まだ戦後間もない時に、鎮子さんと、二人の妹・晴子さんと芳子さん、花森氏、そして花森氏の友人だった横山啓一氏の五人で、出版社「衣装研究所」を銀座のビルの一室から立ち上げます。

社長には鎮子さんが、雑誌の編集長には花森氏が就任し、二人を中心に新たな道をスタートさせたのです。そして、同年、念願の雑誌「スタイルブック」を創刊、多くの女性に支持されました。

しかし、「スタイルブック」を真似した多くの雑誌が発売され、鎮子さん達の雑誌の人気は落ちてしまったそうです。「スタイルブック」創刊から二年後に「美しい暮しの手帖」を創刊。

それが、1953年から現在も続く雑誌「暮しの手帖」となったのだそうです。
 
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