2019年度後期NHK朝ドラ『スカーレット』の主人公のモデルはいるのでしょうか?
『スカーレット』について公表されているデータを見ると、「地元の信楽焼(しがらきやき)に触れて育ち」やがて「女流陶芸家の草分けとして歩み始める」とあります。
実は、まさにそういう女性が実在します。
『神山清子(こうやま きよこ)』さん、という女性です。
数少ない女流陶芸家であり、独自の信楽焼を生み出した女性として知られています。
神山清子さんのプロフィールや、現在の様子をご紹介します。
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もくじ
【スカーレット】川原喜美子(戸田恵梨香)のモデルの神山清子さんとは?
それでは、モデルであろう神山清子さんはどんな人なのでしょうか。
絵の好きな子どもが、陶芸の絵付け師に
神山清子さん【旧姓:金場(かなば)】は、1936年(昭和11年)に長崎県佐世保で生まれました。
やがて一家は滋賀県の信楽に落ち着きます。
清子さんは画家になりたかったのに父の強い反対にあいますが、清子さんは夢を捨てず、焼き物の絵付け師を目指したのです。
最初は絵付け師のところに強引に弟子入りすると、やがて『近江化学陶器(おうみかがくとうき)』という製陶会社で働くようになりました。
清子さんは、仕事場でも家でも絵付けの練習をしたそうです。
そしてこの会社で知り合った神山易久(やすひさ)さんと21歳の時に結婚しました。
最初に久美子(くみこ)さんを、次に賢一(けんいち)さんを授かりました。
独立し女流陶芸家の道を歩む
清子さんは、火鉢が売れなくなり経営が傾いてきた会社を辞めて独立しました。
最初は当時の信楽焼の手法、型押しを使っていましたが、なかなかうまくいかなかったそうです。
考えあぐねた清子さんは子どもの遊びをヒントに、土の団子を作り大皿を焼きました。
これが清子さん独自の『小紋様皿』や『編み込み皿』の発明に繋がりました。
寸揺窯と信楽自然釉の発明まで-苦労の連続
転機となったのは息子の賢一さんが拾ってきた古い信楽焼の破片でした。
その色があまりに美しく、清子さんはすっかり魅了されてしまったのです。
古い信楽焼は、釉薬(ゆうやく)を使わず、穴窯(あながま)という形式の窯で作られていました。
古い信楽焼を復活させるため、清子さんは夫婦で大金をかけて穴窯を作りました。
これが『寸越窯(ずんごえがま)』です。

引用:http://www.natsume-books.com
しかし、穴窯は「失敗失敗の連続という最悪の状態」で、女流陶芸家に対する世間の冷たい目に浴びます。
そして、夫の不倫と離婚、借金取りに追われ、米のとぎ汁をすする生活・・・
清子さんは何度も自殺を考えたそうです。
しかし、清子さんは何年もかけて、遂に理想とした色の陶器を作りあげたのです。
清子さん独自の『信楽自然釉(しがらきしぜんゆう)』の誕生でした。
「信楽自然釉を残してくれた過去の多くの陶工や、信楽の先人達に対する深い感謝の気持ちと共に、自然釉を求めて生きる喜びを知った私は、最高に幸せである」と、清子さんは語っています。
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【スカーレット】喜美子のモデル・神山清子さんの骨髄バンク運動
「しっかりせにゃ、しっかりせにゃ」—賢一さんと闘病生活
苦労続きの生活の中、清子さんの支えになってくれたのは息子の賢一さんでした。
清子さんは賢一さんを跡取りと考えていたのです。
しかし初の親子共同での展示会『母子作陶会(おやこさくとうかい)』を控えた頃、賢一さんが慢性骨髄性白血病で倒れてしまったのです。
余命二年半と断じた医師の言葉に、清子さんは気を失ってしまいました。
それからの清子さんは「しっかりせにゃ、しっかりせにゃ」という言葉が口癖になったのだそうです。
「息子と一緒に死ぬしかない」と思ってしまう自分を奮い立たせるためでした。
白血病はHLAという白血球の型が一致するドナー(提供者)から骨髄液を移植するしか治療法がありません。
しかし一致する確率は極めて低いのです。
しかも当時は、事実上自力でドナーを探すしかありませんでした。
日本骨髄バンク設立までの道のり
状況を知った賢一さんの友人達が『神山賢一君を救う会』を結成しました。
この会は、賢一さんのためだけに血液を集めるはずでした。
しかし、同じ病の人々から募金を使う権利は自分にもあると、全国の患者から要望がぞくぞくと送られてきたのです。
賢一さんはこの人たちのドナーも探そうとしました。
しかし、この人たちは会の運用費用の負担はしませんでした。
結果的に莫大な借金により、この会は解散してしまったのです。
しかし新たに、1991年には賢一さん自身が会長になり『骨髄バンクと患者を結ぶ会』を結成しました。
この会は全国の患者の協力により、多くの支援を集めて動き出します。
母子の強い想いが、ついに結実したのが1991年12月に、公的な骨髄バンクである『骨髄移植推進財団』(現、日本骨髄バンク)が設立されたのです。
神山清子さんと賢一さんの思いは、現在もしっかりと受け継がれています。
「子守歌、歌って」-賢一さんの死
「母さん、子守歌を歌って・・・」
賢一さんは亡くなる時、子どものように清子さんに身体をあずけて、うわごとのようにつぶやいていたそうです。
1992年4月、賢一さんは清子さんに抱かれて静かに息を引き取ります。
しかし、賢一さんの遺した骨髄バンクは、いまでもしっかりと息づき活動しています。
「たとえ、私の命が消えても、後に続く患者の誰かが救われたらと思います」
そう語った、賢一さんの言葉通りになったのです。
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【スカーレット】川原喜美子のモデルの現在は?|まとめ
2019年度後期NHK朝ドラ『スカーレット』の主人公のモデルとなった神山清子さんの波瀾万丈の人生をみてきました。
清子さんは、2020年現在も陶芸活動に精力的に取り組んでいます。
陶房は、信楽の陶芸の森美術館近くに現在でもひっそりと建っているとのことです。
作品は、土の赤が綺麗に出た、不思議な温かみのある光沢が特徴です。

信楽観光協会(引用:http://www.e-shigaraki.org/
『スカーレット』製作統括 内田ゆきさんは「信楽焼の表情の中でも非常に暖かみのある“赤”は、タイトルの所以でもあり、物語の大きな特徴になっている」と語っています。
信楽焼の緋色は、清子さんの陶芸への情熱と同じ炎の色なのかもしれません。
「人は最悪にして最低になった時に自己を見つめ直すことができるものである。そして一生の仕事に出会う機会に恵まれるものである」
そう、清子さんは自分の人生を振り返って語っていらっしゃいます。

神山清子さん
そして現在、「最高に幸せである」と語る清子さん。
『スカーレット』では彼女をモデルにして、どう語られていくのかとても楽しみですね。