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【エール】朝ドラのモデル古関金子さんとは|二階堂ふみが関内音として熱演!

朝ドラ【エール】主人公の古山裕一(こやまゆういち)は、作曲家、古関裕而(こせきゆうじ)さんがモデルとされています。

そして、裕一の妻・音(おと)は、裕而さんの妻『古関金子(こせききんこ)』さんがモデルとなります。

古関金子さんを演じるのは人気女優の二階堂ふみさんです。

さて、そのモデルである古関金子さんとは、いったいどんな女性だったのでしょうか。

その魅力を探ります。~♬

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【エール】朝ドラのモデル古関金子さんとは|プロフィール

彼女のとびきりのプロフィールをご紹介します。

愛知県豊橋市の商店の娘

古関金子さんは1912年(明治45年)3月6日生まれ。

旧姓は『内山金子(うちやまきんこ)』さんです。

父は内山安蔵(うちやまやすぞう)さん、母はミツさん。

父の安蔵さんは陸軍獣医として、日清戦争と日露戦争に従軍しています。

その後、陸軍の第15師団の本拠地である愛知県豊橋市で、馬具などを製造販売し軍に収める商店を経営していました。

陸軍第15師団

早くに父・安蔵さんが亡くなり、母・ミツさんは女手一つで金子さんたちを育てたそうです。

金子さんは7人兄妹でした。

兄の勝英(かつひで)さんを筆頭に、長女の富子さん、次女の清子さん、三女の金子さん、四女の松子さん、五女の貞子さん、六女の寿枝子さん。

次女の清子さんは金子さんとも関係が深く、古関家や内山家について個人的な手記を残しています。

それによると、金子さんは元気が良く、本と音楽が大好き、空想が大好きな少女だったそうです。

金子さんは『豊橋高等女学校(現在の愛知県立豊橋東高等学校)』を卒業、声楽家になることを目指していました。

「かぐや姫」金子と『竹取物語』裕而の文通

金子さんが、裕而さんの名前を知ったのは、新聞記事でした。

英ロンドンのチェスター音楽出版社募集の作曲コンクールで、裕而さんの舞踊組曲『竹取物語』が2等を取ったという記事です。

なぜ、金子さんはこの記事に目をとめたのでしょうか?

文通を始めた頃・金子さん18歳

それは、金子さんが小学校5年生の頃、学芸会で『かぐや姫』の役を演じて以来、『かぐや姫』というニックネームで呼ばれていたからだと言われています。

金子さんは早速、裕而さんに楽譜が欲しいと手紙を送ったそうです。

これが、二人の交際のきっかけになりました。

1929年(昭和4年)金子さん17歳、裕而さんは20歳でした。

数か月の文通そして結婚

「広いこの世界にこうして結ばれた魂と魂。お互いが真剣に生一本な心の持ち主だったら、一致したとき必らず偉大な芸術を産み出すことが出来ると信じます」

金子さんが裕而さんに送った手紙の一部です。

この文章、読み方によっては、凄く熱いラブレターでもありますよね。

裕而さんからは、

「貴女が不美人だろうが、何んだろうが、そんな事は第二です。ただ貴女の、金子さんの気持ちに、その熱に、私は感じております・・・」

さらに、金子さんからも、

「裕而さんの写真を離すのは湯に入る時きりです。いつも眺めてます・・・」

と、裕而さんに書き送っています。

いやはや、もう、なんというか…

当時、こんな熱烈なラブレターのやりとりをしていたとは驚きですね。

文通をはじめて数か月、1930年(昭和5年)6月1日二人は結婚します。

金子さん18歳、裕而さんが20歳の時でした。

そして、金子さんは後にこう語っています。

昭和5年・新婚当時の二人

私たちが結婚するまでの期間は三か月くらいでしたかね。

それもほとんど文通でした。私って冒険心があるのね。

何て言うか人生に夢を持っているんですね。

だから平凡なことよりも、実力を活かしていくような職業が好きだったんです。

それで突進したわけ・・・

 

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【エール】朝ドラのモデル古関金子さんとは|支え合って戦争を乗り切る

帝国音楽学校へ

1930年(昭和5年)、夫、裕而さんがレコード会社『コロムビア』の専属作曲家となったことを機に、裕而さんと金子さんは上京します。

金子さんは、裕而さんのいとこの勧めで、日本初のプロ合唱団『ヴォーカル・フォア合唱団』に参加します。

同時に『帝国音楽学校』に入学し、本格的に音楽の勉強を始めたそうです。

金子さんはソプラノ歌手として学校でも抜きん出ていて、先生から後継者と認められるほどだったそうです。

上京して2年後には長女・雅子(まさこ)さんを、さらにその2年後には紀子(みちこ)さんを授かりました。

戦時下でのエピソード

金子さんは、1941年(昭和16年)にはオペラを演じたり、音楽会や軍の病院での慰問などで歌っていました。

裕而さんは1944年(昭和19年)にインド・インパールに従軍慰問に行くことになったとき、金子さんと娘達の事が心配だったそうです。

でもそんな裕而さんを、金子さんは、「きっと元気に帰られますよ」と、励まして送り出します。

昭和13年9月戦地慰問(左)古関裕而(右)西城八十

ところが、インパールに向かう途中、裕而さんは熱病(デング熱)に倒れます。

その時、遠く離れた日本で、金子さんは裕而さんがベッドで苦しんでいる夢を見ます。

そして「お父様は、今病気よ!」と、娘達に話すと、裕而さんが無事に帰ってくることを、ひたすら祈り続けたそうです。

デング熱は当時、亡くなっても不思議ではない程の病でした。

そんな中、運よく10日ほどで全快したといいます。

帰国後に、金子さんの『夢の話』を聞いた裕而さんは、「やはり想いというものは通じる」と、自伝の中も書いていらっしゃいました。

金子さん病に倒れる

戦時中、疎開先で金子さんが腸チフスにかかってしまいました。

当時は、腸チフスも死亡率が高い病でした。

実際に金子さんの顔には、『死相』が現れていたほどだったそうです。

しかし、駆けつけた裕而さんからの輸血などもあって、なんとか一命を取り留めました。

そして、1945年(昭和20年)8月15日、終戦を迎えるのでした。

 

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【エール】朝ドラのモデル古関金子さんとは|終戦後も手を取り合って

戦後、金子さんは一転して、裕而さんと子ども達の面倒を見るため家庭に入りました。

投資に絵画に多才な女性金子さん

その後はなぜか、投資信託を勉強するようになったのだそうです。

当時の女性としては、びっくりですね。

単に勉強するだけではなく、雑誌で『株は芸術』というコラムを執筆したり、財界の人と対談したりと、ここでも多才ぶりを発揮しています。

その後は油絵を習うようになって、大正から続く美術団体『新槐樹社(しんかいじゅしゃ)』の展覧会に入選し、上野の東京都美術館に展示されたそうです。

本当に多才な女性ですね。

「われ生きんとす」の歌を読み永眠する

1976年(昭和51年)。

3人の子ども達も独立し、東京世田谷区の大きな家に裕而さんと二人でのんびりと暮らしていた頃、金子さんは乳がんに倒れます。

二度の手術、三回の入院。

そして1980年(昭和55年)7月23日、金子さんは永眠されました。

享年68歳、夫婦の金婚式を迎えた直後のことでした。

入院中に、金子さんが詠んだ和歌が残っています。

「激痛を なだめんとして 暁(あかつき)の 浴室に佇(た)つ われ生きんとす」

 

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【エール】朝ドラのモデル古関金子さんとは|二階堂ふみが関内音として熱演!|まとめ

【エール】朝ドラヒロインのモデル・古関金子さんの生涯を見てきました。

熱烈な愛の文通で結ばれ、生涯愛し合い信頼し合ったお二人でした。

ちなみに、息子・正裕さんは、父・裕而さんの曲を演奏するライブユニット、その名も『喜多三(きたさん)』で今も活動しています。

さてさて、多才でエピソード満載の金子さんを演じるのは二階堂ふみさんです。

このキャスティングは『オーディション』での選出でした。

そして、二階堂ふみさんに決定した一番の理由が『歌唱力』だったそうです。

きっと番組の中でも、その『歌唱力』が随所で披露されることと思います。

二階堂さんはどんな『音(金子)』を演じてくれるのでしょうか。

夫婦のラブロマンスも含めて、楽しみでなりませ~ん♬

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