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【エール】のモデル鉄男(大将)役|作詞家・野村俊夫の史実とは?

【エール】の登場人物には、中村蒼さん演じる大将こと村野鉄男という人物がいます。

モデルは作詞家の野村敏夫さんです。

エール キャスト 村野鉄男役・中村蒼

村野鉄男役・中村蒼

まさにドラマと同じ、新聞記者から作詞家になったモデルの野村俊夫さんを紹介します。

『野村俊夫』と聞いてもピンとこなくても、年配の方なら、若き日の島倉千代子さんのヒット曲「東京だョおっ母さん」の作詞家と聞けばおわかりになる方も・・・?

【エール】のモデル鉄男(大将)|野村俊夫さんのプロフィール

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では「野村俊夫」さんとは、いったいどんな方だったのでしょうか、早速ひも解いてみましょう。

幼なじみのガキ大将

野村俊夫さんは1904年(明治37年)11月21日生まれ。

裕而さんより5つ年上の幼なじみでした。

本名は『鈴木喜八(すずききはち)』さんです。

実家は『魚忠』という魚屋で、裕而さんの実家である呉服店『喜多三』の向かいにありました。

当時の魚屋のイメージ

ガキ大将だった俊夫さんと裕而さんは、幼なじみとして育ったのだそうです。

しかし、俊夫さんの父が『相場』に手を出して失敗。

裕而さんが小学校に入る頃には、引っ越してしまったのでした。

古関裕而さんとの再会

俊夫さんは、『福島商業学校』(現在の福島県立福島商業高等学校)に入学しますが、事情もあり中退しています。

後に1957年(昭和37年)、この『福島商業学校』の校歌『若きこころ』を野村俊夫さんが作詞しています。

もちろん、作曲は古関裕而さんでした。

一方、中退後は他家への奉公や実家の手伝いを経て、1924年(大正13年)、20歳の時に『福島民友新聞社』の記者となり、社会部や文芸欄を担当していたそうです。

そして、記者の仕事のかたわら、文芸欄で自分の作品を発表したり、詩の雑誌に投稿したりしていました。

俊夫さんが裕而さんと再会したのはその頃だったそうです。

裕而さんが所属した『福島ハーモニカ・ソサエティ』がきっかけでした。

この団体の主催者が、俊夫さんの親友だったのです。

「練習日にはひょっこり顔を出して、合奏に聞き入っていた」と、裕而さんは後に語っています。

「当時流行のソフト帽子をかぶり、和服に、派手なマフラーを衿元にのぞかせたインバネスコートを着て、さっそうと市内を闊歩していた」と、裕而さんは彼の姿を自伝で描いています。

インパネスコート(イメージ)

なかなかのおしゃれだったようです。

記者から作詞家へ

俊夫さんが『福島民友新聞社』の記者時代に作詞した『福島行進曲』という曲があります。

『福島行進曲』は、裕而さんが『コロムビア』の専属作曲家となって、初めての作曲となりました。

この時に、俊夫さんは裕而さんに誘われ、『流行歌の作詞家』となるべく福島から上京したのだそうです。

野村俊夫さん

上京したのは良かったのですが、当時の日本は1929年(昭和4年)のアメリカ発の『世界恐慌』の影響をもろに受けていた時代で、東京でもろくな仕事はありませんでした。

そのために俊夫さんは、貧しく苦しい生活を強いられたようです。

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【エール】村野鉄男(大将)のモデル野村俊夫さん|戦時中の苦労と脱却

その後、第二次世界大戦が始まり、俊夫さんにとっては苦しい時代が続きます。

生活のための作詞活動

俊夫さんは戦争を賞賛するような歌詞を書くことを良しとせず、むしろ政府のブラックリストに載ってしまったほどでした。

すでに結婚し、長女、次女の二人の家族を養っていた俊夫さん。

家族の生活を守るために、俊夫さんはやむを得ず戦時歌謡の作詞をします。

最初に戦時歌謡として政府の検閲を通ったのが『ほんとにほんとに御苦労ね』という曲だったのだとか。

この曲、随分後になってあの『ドリフターズ』が替え歌を作りヒットしています。

『福島三羽ガラス』

そんなふうにしばらく鳴かず飛ばずの時期がありましたが、1938年(昭和13年)に作詞した『忠治郎子守歌』で初のヒットを、翌年『上海夜曲(しゃんはいやきょく)』を作詞し(唄・藤山一郎)さらに大ヒット。

これがレコード会社『コロムビア』に認められ、専属作詞家となりました。

これで、作詞家の野村俊夫さん、作曲家の古関裕而さん、そして歌手の伊藤久志さんという『福島三羽ガラス』と言われるメンバーが『コロムビア』にそろったのでした。

伊藤・野村俊夫・古関

作詞家としてJASRACの理事として

戦後は、『福島三羽ガラス』や有名な作曲家・古賀政男さんなどと組みながら、2000曲以上を作詞しました。

昼はパチンコ、夜中に仕事という生活だったそうです。

「酒もたばこもかなりのものだった」とか、あの時代の人らしいですね。

1951年(昭和26年)には『日本音楽著作権協会(JASRAC)』の理事にまでなりました。

そして、1966年(昭和41年)10月27日、62歳の生涯を閉じたのでした。

遺作は裕而さんとの校歌

ちなみに作詞は俊夫さん、作曲は裕而さんで福島県伊達市の『富成小学校(とみなりしょうがっこう、2018年に閉校)』の校歌も作っています。

俊夫さんは戦時中、母方の実家のあるこの富成の地に疎開していたことがあったのです。

俊夫さんは作曲の裕而さんに「開校記念日にぜひ間に合わせて欲しい」という葉書を送っていたのだとか。

歌詞が送られてきたのは8月、俊夫さんが亡くなったのは10月でした。

作られた曲は、1966年(昭和41年)12月12日の創立96周年記念日に校歌として制定されたのだそうです。

この曲が、俊夫さんの遺作となりました。

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【エール】村野鉄男(大将)のモデル野村俊夫さん|まとめ

村田鉄男のモデル、野村俊夫さんについてその生涯を追ってみました。

古関裕而さんとは、ドラマの設定通り本当に幼なじみで、さらに、亡くなる直前まで友人関係にあったようですね。

この役を演じるのはイケメン俳優の中村蒼(あおい)さん。

俊夫さんも若いときはなかなかおしゃれなイケメンだったようですから、まさにイメージ通りかもしれませんね。

どんな『村野鉄男』さん役で登場してくれるのか、待ち遠しいかぎりですね~♬~

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