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【エール】のモデル古賀政男|木枯(こがらし)が演じる不死鳥伝説とは?

【エール】登場人物に、野田洋次郎さんが演じる『作曲家・木枯正人(こがらしまさと)』がいます。

この木枯のモデルは、作曲家の『古賀政男(こがまさお)』さんです。

古賀政男さんは、【エール】のモデル・古関裕而さんと同時期に『日本コロムビア』に入社しました。

今回は、昭和を代表する作曲家として活躍した古賀政男さんについてご紹介します。

【エール】のモデル古賀政男|木枯(こがらし)が演じる作曲家の史実とは

古賀政男(こがまさお)さんは、長きにわたり常に第一線で活躍した、昭和を代表する作曲家です。

しかし、時代にほんろうされ、人間関係に苦悩し続けた人でもありました。

そして、その挫折を何度も乗り越えて、自らの『黄金期』を何度も創り出した方でもあります。

木枯正人のモデル・古賀政男さん

【エール】のモデル古賀政男さん|多感な少年期を韓国で過ごす

古賀政男さんは、1904年(明治37年)11月18日、福岡県の田口村(現在の大川市)に生まれました。

瀬戸物の行商を営む古賀家の、8人兄弟の第6子で5男として生まれました。

古賀さんが5歳の時に父親が50歳で急逝。母子家庭となった一家は、日本統治下の韓国・仁川で商売を営む長兄の元へ身を寄せました。

その後、古賀さんは、京城(現在のソウル市)の『善隣(そんりん)商業学校』に入学しました。

その頃に、大阪に住む兄から『マンドリン』を贈られた古賀さんは、音楽家の道を志すようになります。

イタリア発祥の撥弦楽器・マンドリン

18歳になった頃、古賀さんがあまりにも音楽に熱中するため、長兄は商売の邪魔になると激怒します。

ついには、大阪へ奉公に出される形で、古賀さんは日本へ帰国しました。

古賀さんは、多感な少年時代となる8歳から18歳までの10年間を韓国で過ごしました。

その韓国時代の経験が、後の『古賀メロディ』の叙情感に大きな影響を与えました。

古賀さんの通った善隣商業学校

【エール】のモデル古賀政男さん|音楽に夢中で勘当される

大阪に住む兄のもとで働き始めた古賀さんですが、心は音楽一色でした。

1923年(大正12年)に、音楽の道を目指すために兄に勘当されながら上京して『明治大学予科』に入学

すぐに『明治大学マンドリン倶楽部』の創設メンバーとなりました。

▼藤山さんと後輩と共演する古賀さん


念願の音楽漬けの生活を始めた古賀さんは、すぐに頭角を現しました。

『駿河台音楽院』で、ギター・マンドリンを教えながら生活費を稼ぎ、学業と音楽活動にのめりこみました。

【エール】のモデル古賀政男さん|人生に絶望して自殺未遂

昭和初期は、関東大震災や昭和金融恐慌などの影響で暗い時代でした。

古賀さんは、大学卒業を控えた1928年(昭和3年)に、旅先の蔵王で『自殺未遂』事件を起こします。

理由は、離婚歴のある年上女性との失恋の痛手です。

さらに空前の就職難や自分の音楽の将来性に絶望したことだったそうです。

幸いにも一緒に旅行に同行していた友人に助けられ、われに返って正気を取り戻したそうです。

その時に見た美しい夕焼けに感動して詩を書きました。

それに曲をつけたのが、不朽の名作『影を慕いて』です。

翌1929年(昭和4年)春に大学を卒業するものの、就職先が見つからないため、急場しのぎにマンドリン倶楽部の指導者になりました。

古賀さんの社会への船出は、不安に包まれたものでした。

同年6月に開催されたマンドリン倶楽部の演奏会で、先の『影を慕いて』を演奏することになりました。

同曲を歌ったのは、演奏会にゲスト出演した歌手・佐藤千夜子(さとうちやこ)さんです。

人気歌手・佐藤千夜子さん

佐藤さんは、『東京行進曲』などで知られる、当時の歌謡界の女王と呼ばれる人気歌手でした。

『影を慕いて』に感激した佐藤さんは、流行歌に編曲することを古賀さんに強く勧めます。

古賀さんは、その勧めに応えてギター歌曲に取り組みました。

ちょうどその頃、スペインから来日したギターの巨匠『アンドレス・セゴビア(スペイン)』の奏でる音色に、古賀さんは強い衝撃を受けたそうです。

ギターの巨匠アンドレス・セゴビア

現代クラシック・ギター奏法の父と呼ばれるセゴビアの音色は、その後の『古賀メロディ』に大きな影響を与えました。

セゴビアの音色を研究して取り入れた『影を慕いて』が完成すると、マンドリン倶楽部の伴奏で佐藤千夜子さんがレコードディングをしました。

そして、佐藤さんの『日本橋から』のB面収録として、1931年(昭和6年)1月にビクターからリリースしました。

しかし、レコードセールスは伸び悩むのでした。


もしも、古賀さんが自殺していたら? 佐藤千夜子さんが勧めなかったら? セゴビアの音色に出会わなかったら?

そんなことが起きていれば、歌謡史は大きく変わっていたことでしょう。

【エール】のモデル古賀政男さん|【第1黄金期】藤山一郎と出会い

古賀さんは、1931年(昭和6年)に『日本コロムビア』の専属作曲家になりました。

同社は、古賀さんの『影を慕いて』に注目してオファーを出したのです。

時を同じくして、5歳年下の古関裕而さん(【エール】古山裕一役)も同社の専属作曲家になりました。

そんな中、古賀さんの運命を変える大きな出来事がありました。

それは、『東京音楽学校』の学生・藤山一郎(【エール】山藤太郎役)さんとの出会いです。

藤山さんは、実家を助けるために学校に内緒で歌手活動をしていました。

藤山さんの卓越した歌唱力は、古賀さんの才能を世の中に知らしめることになりました。

『古賀&藤山』のコンビの『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』は日本中を席捲するメガヒットとなりました。


その後、藤山さんが学業に専念することになり、コンビは解散。

古賀さんは、藤山さんが学校を卒業して『日本コロムビア』に復帰するのを待ち続けていたそうです。

しかし、藤山さんは『ビクター』と契約を結び、古賀さんは落胆しました。

さらに、古賀さんは『肺浸潤(はいしんじゅん)』(当時は肺結核の初期状態の意味)を患います。

そこに、離婚騒動が重なりました。

古賀さんは、1932(昭和7年)の年末に、作曲家・山田耕作さんの媒酌で、歌手の中村千代子さんと結婚していました。

しかし、古賀さんが多忙なため『すれ違い』が生じてしまい、結婚からわずか10カ月で離婚(その後、生涯独身で過ごしました)。

身心ともに崩れた古賀さんは、1933年(昭和8年)の晩秋から翌年の春まで療養生活に入りました。

【エール】のモデル古賀政男さん|【第2黄金期】移籍先は破格の待遇

伊豆の温泉で療養していた古賀さんは、『日本コロムビア』に不満を募らせていました。

理由は、見舞はおろか連絡すらしてこなかったからです。

そんな時、湯船につかっていた古賀さんの前に、関西の新興レコード会社『テイチク』の南口社長が、スカウトに現れたそうです。

移籍にあたり、高額報酬、重役ポジション、歌謡曲の制作の一切を古賀さんに任せるという破格の条件でした。

1934年(昭和9年)に、古賀さんは『テイチク』へ移籍を決めます。

突然の移籍に怒った『日本コロムビア』は、無効を訴えて提訴に踏み切りますが、古賀さんの言い分が認められました。

なお、古賀さんは、『日本コロムビア』へ入社させていた明大マンドリン倶楽部の7人の後輩も、一緒に引き連れて行ったそうです。

その後、古賀さんは、ビクターから藤山一郎さんを迎え入れ、コンビを復活させます。

『古賀&藤山』のコンビは『東京ラプソディ』など数々の大ヒット曲を送り出しました。


また、藤山さん以外にも、ディック・ミネさん、楠木繁夫さんらとともにヒット曲を送り出しました。

『テイチク』の黄金時代を築いた古賀さんですが、社長や重役たちとの不和を悩み、退社する道を選ぶのでした。

【エール】木枯のモデル・古賀政男さん|【第3黄金期】アメリカから凱旋帰国

『テイチク』を退社した古賀さんは、1938年(昭和13年)から翌年にかけて、外務省の『音楽文化親善使節』として、北南米を訪問しました。

古賀さんは、緊張する日米関係の融和する役割を背負っていたそうです。

実は、当時のアメリカでは『古賀メロディ』が流れていました。

古賀さんのヒット曲『酒は涙か溜息か』の英語バージョンを、アメリカの歌姫『グレース・ムアー』がカバーしています。

さらに、『二人は若い』を、ソプラノ歌手の『リリー・ポンス』が歌うなど好評を博していました。

アメリカ訪問時には、三大ネットワークの一つ『NBC放送』で、古賀さんの作品が15分間に渡って全世界に向けて放送されました(1939年8月31日)。

そして、アルゼンチンでは、同国のギター最高権威の『アントニオ・シノポリ』にギターの指導を受けました。

感銘を受けた古賀さんは、帰国後、国内のギター演奏技術の普及に力を注ぐようになります。

『音楽文化親善使節』を終えた古賀さんは、古巣の『日本コロムビア』に復帰して、再び快進撃をスタートさせました。

霧島昇さんが歌う『誰か故郷を想わざる』、二葉あき子さんが歌う『なつかしの歌声』、霧島さんと二葉さんのデュエット『新妻鏡』など立て続けにヒットを飛ばします。


その後、日本が戦時下になり、音楽の置かれた環境に変化が起きます。

時代は、勇ましい戦時歌謡を求めますが、哀愁感が持ち味の『古賀メロディ』は苦戦します。

一方で、良きライバルの古関裕而さんは、戦時歌謡で大ヒット曲を連発。人気作曲家になっていきました。

【エール】のモデル古賀政男さん|【第4黄金期】自由な時代に復活

戦後、自由な表現活動ができる時代になると、日本の復興を背景に古賀さんも復活を遂げます。

1948年(昭和23年)に、古賀政男門下生の歌手・近江俊郎(おうみとしろう)さんと出した『湯の町エレジー』が空前の大ヒットを記録しました。

同曲は、古賀作品の中で最も売れた曲となりました。なお、作詞は野村俊夫さん(【エール】村野鉄男役)です。


さらに、二葉あき子さんの『恋の曼珠沙華』、伊藤久男さん(【エール】佐藤久志役)の『シベリヤ・エレジー』、などヒット曲が続きました。

古賀さんは、再び、エンターテイメントの中心で輝きを放ちました。

【エール】のモデル古賀政男さん|【第5黄金期】新興勢力に相手に存在感

昭和30年代になると、『戦後派』の作曲家が歌謡界を席巻します。

都会派ムード歌謡の吉田正さん(有楽町で逢いましょう等)、演歌系歌謡曲の船村徹さん(別れの一本杉等)と遠藤実さん(からたち日記等)、ジャズ出身の中村八大さん(上を向いて歩こう等)などです。

危機感を感じた古賀さんは、新たなスタイルを模索

そして、戦後歌謡界の女王・美空ひばりさんとコンビを組みます。


『柔』(1964年)は、美空さんのシングル売上最高となる180万枚を記録。

145万枚を売り上げた『悲しい酒』(1967年)も、美空さんの代表曲となりました。

美空さんとのコンビは『古賀ギター演歌』の完成形と評されています。

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【エール】のモデル古賀政男さん|社会貢献と古関さんとの関係

【エール】木枯のモデルの古賀政男さん|音楽界の発展に貢献

古賀さんは、音楽界の発展のために貢献しました。

昭和34年(1959年)には、作曲家の地位向上を目指して『日本作曲家協会』を設立して初代会長になりました。

同時に、作曲家の服部良一さんらとともに『日本レコード大賞』を創設して、運営委員長に就任します。

古賀政男さん(左)と服部良一さん

また、昭和49年(1974年)には、平和の願いを込めた『広島平和音楽祭』を開催しました。

常に平和を願っていた古賀さんは、次のようなメッセージを残しています。

「私の歌の好きな人は悲しい人達ばかりだ。早くこんな歌が唱われなくなる日が来ると好い。みんなハピーになって欲しい。古賀メロディーも早く去れ。誰かがきっと明るいハピーをもたらす」(古賀政男音楽博物館に展示)

古賀さんの生きた時代は、戦争をはさみ暗い世相も多かったことから、悲しい歌が人々の心をとらえていました。

悲しい歌が必要なくなることを強く願う古賀さんのお人柄がわかるメッセージですよね。

そして、古賀さんはメッセージを書き残した2日後の昭和53年7月25日に、急性心不全によって突然の別れを告げました(享年73歳)。

日本中が悲しみに包まれる中、福田赳夫内閣総理大臣より史上2人目の『国民栄誉賞』が贈られました(1人目はプロ野球選手・王貞治さん)

故郷の銅像の前で生誕祭

【エール】のモデル古賀政男さん|古関裕而さんとの関係

先に記したとおり、古賀政男さんと【エール】のモデル・古関裕而さんは、同時期に『日本コロムビア』の専属作曲家になりました。

古賀さんの良きライバルの古関裕而さん

古賀さんと古関さんは、励まし合いながら下積み時代を過ごしたそうです。

古賀さんが藤山一郎さんと組んでヒット曲を出しはじめると、会社内の状況が変わります。

なかなかヒット曲に恵まれない、古関さんの立場が危うくなっていきました。

しかし、古賀さんは、会社の上層部を相手に、古関さんのことを必死にかばい続けたそうです。

戦争直後の古賀政男さん

好不調を経験しながら、お互いに切磋琢磨した古賀さんと古関さん。

やがて『演歌の古賀政男』、『マーチの古関裕而』と言われるなど人気を博していきました。

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【エール】のモデル古賀政男|木枯(こがらし)が演じる不死鳥伝説とは?まとめ

【エール】に登場する作曲家・木枯(こがらし)のモデルは、昭和を代表する作曲家の古賀政男さんです。

明治後期に生まれた古賀政男さんは、大正、昭和の激動の時代を、苦悩と挫折を何度も乗り越えながら強く生きました。

その波乱万丈な生涯で、4,000曲以上の『古賀メロディ』を残し、それらは今なお人々に愛され続けています。

昭和を代表する名作曲家を、野田洋次郎さんがどう演じるのか楽しみです♪

◆ドラマよりびっくり!?【エール】モデルたちの実話はコチラ▶

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