【エール】登場人物に、『歌手・山藤太郎(やまふじたろう)』がいます。
この山藤太郎のモデルは、歌手の藤山一郎(ふじやまいちろう)さんです。
今回は、国民的歌手と呼ばれ昭和を代表する歌手、山藤のモデル・藤山一郎さんについてご紹介します。
もくじ
【エール】のモデル藤山一郎|山藤太郎が演じる歌手のプロフィール
【エール】山藤太郎のモデル・藤山一郎(ふじやまいちろう)さんは、戦前・戦中・戦後に活躍した昭和を代表する歌手です。

山藤太郎のモデル・藤山一郎さん
藤山さんは学生時代から流行歌手として活躍しました。
『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『東京ラプソディ』『青い山脈』『長崎の鐘』など、印象深いヒット曲の数々は今なお色褪せません。
歌手だけではなく、作曲家、指揮者、コーラスの指導者としても有名な方で、晩年には『国民栄誉賞』を受賞されました。
【エール】のモデル藤山一郎|血気盛んな学生時代
藤山一郎さんは、1911年(明治44年)に、日本橋の織物問屋『近江屋』に生まれました。
5人兄妹の末っ子で、本名は増永丈夫(ますながたけお)さんです。
藤山家は、家業だけでなく、株式投資の収入や家賃収入などがあり、裕福な家庭でした。
藤山さんは幼少期からピアノを習い、女子師範(現・お茶の水女子大)付属幼稚園、慶應義塾幼稚舎を経て慶應義塾大学に進学します。
育ちの良いお坊ちゃまのように見受けられる藤山さんですが、なんと、幼少の頃から短気で手が早くて、気性の粗い性格だったそうです。
慶應の学生時代に、気性の粗さが原因でいさかいを起こしてしまい、藤山さんは3週間の寄宿舎暮らしを命じられました。
その際に、心を落ち着けるために『編み物』を覚えたそうです。
その後、編み物は藤山さんの特技となり、セーターを編むほどの腕前になったとか。
短気なのに編み物なんて、そのギャップが素敵です。藤山さんが編んだものを見てみたいですね。
在学中に慶応の応援歌『若き血』が作られると、藤山さんが学生への歌唱指導を担当したそうです。
血気盛んな藤山さんは、上級生でも容赦なく厳しく指導したため、衝突が絶えなかったようです。
▼応援歌『若き血』を歌う藤山さん
【エール】のモデル藤山一郎|実家を助けるために歌手に
藤山さんは、慶應大学卒業後の1929年(昭和4年)に、『東京音楽学校予科声楽部』(現・東京藝術大学音楽学部)に入学します。
オペラ歌手を目指して声楽部に入学した藤山さんですが、新入生の中で、男性は藤山さんだけだったそうです。
成績優秀で『本科』に進学し、数多くの演奏会で歌うなど順風満帆なひとときを過ごしていた時に、大変な事態が起こりました。
関東大震災や金融恐慌等の影響により、実家が多額の借金を抱えて廃業してしまったのです。
藤山さんは窮地に陥った家計を助けるため、歌唱力を活かしてアルバイト収入を得る道を選びます。
しかし、校則では校外演奏は禁止。そのため、バレないように芸名を付け、顔を明かさず歌手活動を始めることになりました。
そして、『日本コロムビア』から『藤山一郎』の名前でデビューしました。
その後、【エール】木枯正人のモデルである、作曲家・古賀政男さんとコンビを組み、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』などの大ヒットを飛ばすことになります。
▼丘を越えて(1931年)
藤山さんは、1931年~1932年にかけて約40曲も吹き込んだそうです。
報酬は、売れ行きに関わらず1曲15円だったそうで、レコードが売れないことを願っていたそうです。
しかし、ヒットを重ねるうちに、学校に知られてしまいます。
藤山さんは、仕方なく歌手活動を停止することになりました。
【エール】のモデル藤山一郎|慰問先で終戦・捕虜になる
音楽学校卒業後に本格的に歌手活動を再開し、第一線で活躍していきます。
やがて、日本は戦争に突入。

戦地へ慰問する藤山さん
戦時中は、南方各地に頻繁に慰問に出掛けました。
1945年(昭和20年)8月。34歳の藤山さんは、インドネシアのジャワ島で終戦を迎えます。
しかし、藤山さんは捕虜として1年を過ごすはめに。その頃、日本国内では藤山さんの戦死の噂が流れたそうです。
捕虜から解放されて日本に帰国すると、大々的に報道され、すぐに歌手活動を再開させました。
【エール】モデルの古関裕而さん作曲の『夢淡き東京』『白鳥の歌』などをヒットさせました。
▼夢淡き東京(1947年)
そして1949年(昭和24年)には、映画『青い山脈』(今井正監督)のテーマ曲が大ヒットします。
『青い山脈』は、発売40年後の1989年(平成元年)に放送の『昭和の歌・心に残る200』(NHK)で第1位に輝くなど、藤山さんを語るに欠かせない代表曲の一つです。
▼青い山脈(1949年)
【エール】のモデル藤山一郎|紅白に43回連続出場!
1951年(昭和26年)行われた『第1回NHK紅白歌合戦』に、藤山さんは白組のキャプテンとして出場しました。
大トリを務めた藤山さんは【エール】のモデル古関裕而さん作曲の『長崎の鐘』を熱唱しました。
▼長崎の鐘(1949年)
藤山さんは、第1回(1951年)から出場し、第43回(1992年)まで紅白に連続出場しています。
43回の内訳は、歌手として11回、指揮者で32回ステージに立ちました。
歌手のイメージが強い藤山さんですが、作曲家としても活躍しています。
代表的な作品として『ラジオ体操の歌』があります。
一度は耳にしたことのある方も多いのではないでしょうか。
▼藤山さん作曲『ラジオ体操』
また、お茶目な一面をCMで見せてくれています。
▼CM出演する藤山さん
【エール】のモデル藤山一郎|輝かしい功績
藤山さんは、音楽理論に忠実に、しっかりした発生で歌うことから『正格歌手』と呼ばれていました。
日本語の発音に厳しく、特に「ラ:la」「レ:re」など厳密に発音を区別して、正しいアクセントで明瞭に伝えるスタイルを生涯貫きました。
確かに藤山さんの歌う歌詞は、歌詞を読まなくても聴き取れますよね。
また、藤山さんは、『一般社団法人日本歌手協会』の会長時代に、歌手の立場を強化するために尽力しました。
それまで、レコード売上等に応じて作詞家と作曲家に支払われた『印税(著作権収入)』を、歌手にも『著作隣接権』として支払えるようにしました。
長年の功績により、藤山さんは『勲三等瑞宝章』など数多くの賞を受章。
そして、晩年には「正当な音楽技術と知的解釈をもって、国民に希望と励ましを与え、美しい日本語の普及に貢献した」という理由で『国民栄誉賞』を受賞します。

国民栄誉賞受賞(左から)いく夫人、藤山さん、宮沢首相。
そして、1993年(平成5年)に、藤山さんは他界されました(享年82歳)。
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【エール】のモデル藤山一郎|山藤太郎が演じる歌手の史実とは?|まとめ
【エール】に登場する歌手・山藤太郎は、国民的歌手の藤山一郎さんをモデルにしたキャラクターです。
数多くの大ヒット曲を持つ藤山一郎さんは、昭和の音楽史に欠かせないお一人です。
モデル・藤山一郎さんの実話を知ると、ドラマ【エール】がより一層楽しめるのではないでしょうか。