朝ドラ「エール」
ネタバレあらすじ感想
2020年6月11日(木)放送
エール第11週テーマ
「家族のうた」
【エール】ネタバレ11週54話|あらすじを最終話までお届け!
スポンサーリンク
福島・古山家にて・・・
『胃がん』が進行する父・三郎。
前夜、裕一の歓迎会で酒を飲んだため痛みで苦しんでいます。
往診に来た医師は、絶対安静で酒は厳禁だと命じました。
しかし、三郎は皆を安心させようと、陽気なそぶりを演じるのでした。
居間にて・・・
「手術はできないんですか?」
裕一は、診察を後えた医師にたずねました。
医師は、三郎は手の施しようがない状態で、気力だけで生きていると言います。
そして、三郎の妻・まさに「覚悟はしておいて下さい」と、改めて伝えるのでした。
三郎の寝室にて・・・
父の深刻な病状に落ち込む裕一ですが、平静を装い三郎に寄り添います。
裕一が食べたいものがないかと聞くと、三郎は、久々に裕一のハーモニカが聴きたいと答えます。
そして、裕一が商業学校時代に作った曲が「なかなか良かった」と、しみじみ言います。
裕一はハーモニカを持ってこなかったことを悔やむのでした。
養蚕農家にて・・・
その頃、役場の農業推進係担当の浩二は、養蚕(ようさん)農家の畠山を訪ねていました。
浩二は、見通しの暗い養蚕から、リンゴ栽培に転換することを勧めます。
「うまくいかなかったら責任取れんのか!」
畠山の言葉に、浩二は口ごもってしまいました。
冷たくあしらわれた浩二は、資料を置いて立ち去ろうとします。
すると畠山は、今度来る時は兄・裕一のレコードを持ってこいと言いました。
思わぬ所で兄の名を聞かされた浩二に、静かに怒りがこみ上げるのでした。
居間にて・・・
「すご~く・・・怖いの」
母・まさは、三郎との別れが迫る苦しい胸の内を、音に打ち明けます。
そして、今までのどうして気づけなかったのかと悔やみ、泣き出すのでした。
裕一の部屋にて・・・
裕一は、父のためにできることはないかと音に相談します。
すると、音は、義母・まさが不安で泣いていたことを明かします。
そして、気丈に振舞っているが、ずっと辛かったのだろうと思いやるのでした。
裕一は、母の気持ちを知り、胸が張り裂けそうになりました。
夕方の事・・・
「やっぱ受け取ってくんないかな?」
裕一は、『滞在費』と称し、封筒をあらためて母・まさに渡しました。
それは、今朝、弟・浩二に突き返されたものでした。
まさが封筒を受け取ったその時、仕事を終えた浩二が帰宅しました。
「また母さんに擦り寄ってたのか!」
浩二は、再び封筒を裕一に突き返すと、「兄さんの助けはいらねえ!」と、怒りをにじませます。
すると、裕一は、このままほっといたら三郎は大変なことになると心配します。
しかし、浩二は今まで必死に金を工面しながら、大病院でも診てもらい、手を尽くしてきたと告げます。
「いっつも自分の感情ばっかで動きやがって!」と裕一を突き飛ばすと、「兄さんはな・・・、もうとっくに家族じゃねえんだよ!」と、あらん限りの怒りをぶつけるのでした。
そんな険悪な空気の中、父・三郎が顔を出しました。
三郎は、「大事な話がある!」と言って、裕一を連れ出すのでした。
神社にて・・・
「裕一、俺はもうだめだ・・・」
三郎は、自分の命が残り少ないことに気付いていたのです。
必死にごまかす裕一に、「承諾してもらいてえことがあんだ・・・」と三郎は語り始めるのでした・・・
つづく
◆裕一のモデル・古関裕而さんは本名なの?幼少からの世界観がスゴイ!▶
スポンサーリンク
【エール】ネタバレあらすじ11週54話|感想を最終話まで!
マキタスポーツさんが登場!
この投稿をInstagramで見る
養蚕農家役で登場の『マキタスポーツ』さんは、現在51歳で山梨県出身。
所属事務所は、2018年に『オフィス北野』から『ワタナベエンターテインメント』に移籍しました。
独特すぎる芸名の由来は、スポーツ用品を販売していたご実家の店名です。
ちなみに本名は、槙田雄司(まきた ゆうじ)さん。
存在感のある名バイプレーヤーとして人気のマキタスポーツさんですが、元々はお笑い芸人で、ミュージシャンの『ものまね』は鉄板ネタです。
そして「ネタのできるミュージシャン」として、ロックバンド『マキタ学級』を率いるなどマルチに活躍しています。
マキタスポーツさんは、明日55話にも登場しますのでどうぞお楽しみに♪
福島は、全国5位のリンゴ産地
役場に勤める浩二くんが養蚕農家に勧めたりんご栽培。
福島県は、桃をはじめ果物の産地としても有名ですよね。
りんごは全国5位の収穫量を誇っています(1位から青森、長野、岩手、山形、福島の順)。
青森県や長野県に比べて、温暖な福島県はりんごの開花時期が早いのがメリットです。
そのため、完熟させる期間が長くとれるため、『じっくり完熟』していることが特徴と言われています。
そもそも、福島の養蚕農家がりんご栽培を始めた理由の一つに、1929年(昭和4年)の米国発の世界恐慌が原因にあります。
米国向けに輸出する『生糸』が60%以上も大暴落してしまい、日本中の養蚕農家が大打撃を受けました。
そのため、日本各地で養蚕に代わるものという動きが広がったそうです。