【おちょやん】朝ドラのモデルは浪花千栄子さん|杉咲花が千代役で波乱の人生を演じます

2020年11月30日スタートの朝ドラ第103作は【おちょやん】です。

ヒロイン・竹井千代のモデルは、『大阪のお母さん』と呼ばれた女優・浪花千栄子(なにわちえこ)さん

そして千代を演じるのは、若手実力派女優人の杉咲花(すぎさきはな)さんです。

ここでは、【おちょやん】朝ドラのモデル・浪花千栄子さんについてご紹介します。

NHKおちょやん

もくじ

【おちょやん】朝ドラのモデルは浪花千栄子さんとは?|プロフィールを探る!

NHK朝ドラ第103作【おちょやん】のモデル・浪花千栄子(なにわちえこさん)さんは、正真正銘の『波乱万丈』の人生を送った方といえます。

やんモデル浪花千栄子さん

【おちょやん】のモデル・浪花千栄子さん

8歳で女中奉公へ出され、父親に給料を搾取され、女優になって不当な扱いを受けました。

ようやく結婚してて幸せをつかむも、それは束の間の幸せでした。

夫の劇団のために尽くし、戦争で被害を受け、挙句は夫の女性問題で離婚。

そして、行方不明に・・・。

紆余曲折を経て、40代になってから浪花さんの花は開きました。

『水のように』

昭和のスター歌手・フランク永井さんが歌った『水のように』の曲間に、浪花千栄子さんご本人の朗読が入っています。

私の半生は人にかえり見もされませんどぶ川の泥水でございました。

泥水の中にも美しいはすの花が咲くことを信じておりました私は、今にきっと美しいはすの花を咲かせてやるぞという大きなのぞみを心のどこぞにひそませておりました。10才の私でございました…

(フランク永井『水のように』の曲間に入る、浪花千栄子さん朗読より)

浪花千栄子さんは、この言葉の通り非常にご苦労された方です。

わずか10歳で、泥の中で蓮の花の花を咲かす決意をしたとは・・・。

これより、浪花千栄子さんの送った66年の人生をひもときます。

【おちょやん】朝ドラのモデルは浪花千栄子さん|【幼少期】不幸などぶ川の泥水の運命

浪花千栄子さんの幼少期は、過酷すぎる環境の中で苦労の連続でした。

【おちょやん】モデル・浪花千栄子さん|母に先立たれて

浪花千栄子さんは、本名を『南口菊乃(なんこうきくの)』さんといいます。

大阪は河内にある金剛山(こんごうざん)のふもとで養鶏場を経営していた南口(なんこう)家に、1907年(明治40年)11月19日に生まれました。

父は卯太郎(うたろう)さん、母はキクさんといいます。

ところが、浪花さんが4歳の時に、母・キクさんが病気で亡くなってしまいました。

そのため、浪花さんは幼い弟の面倒を見るために小学校にも行けなかったそうです。

そんな時に父が再婚をします。浪花さんが8歳の時でした。

しかし、この再婚相手が『悪妻』の見本のような人でした。

浪花さんと弟を、亡くなった実母・キクさんの実家に追い出してしまったのだそうです。

しかし、実母・キクさんの実家も貧しく、子どもをさらに二人も育てることができなかったようです。

そこで、浪花さんは、大阪・道頓堀の仕出し弁当屋『浪花料理(なにわりょうり)』に奉公に出されてしまいました。

ここから、浪花さんのすさまじいまでの苦労の人生が始まるのでした。

【おちょやん】モデル・浪花千栄子さん|9歳で女中奉公へ

浪花千栄子さんが女中奉公に出た大正時代は、子どもが奉公に出るのは珍しい時代ではありません。

とはいえ、一般的には小学校を卒業してから奉公に出たと言われています。

しかし、浪花さんはたった9歳の、まだまだ幼い子どもでした。

ちなみに、この当時、お茶屋や仕出し屋で下働きとして働く女の子たちを『おちょぼ』とか『おちょやん』と呼んでいました。

意味は、当時の大阪弁で「小さい」という意味です。

つまり、ドラマのタイトル【おちょやん】もここからきているわけですね。

浪花さんが住み込みで働いた『浪花料理』は、当時流行っていた芝居茶屋(しばいちゃや)へ弁当を納める店でした。

芝居茶屋とは、今で言うプレイガイドです。

食堂であり、お客様の休憩所であり、時にはひいき役者とお客様の取り次ぎをしたり、時にはお見合いの場所となったり。

とにかく、芝居を通じて人や情報が交錯する華やかなスポットだったようです。

『浪花料理』で奉公を始めた浪花さんを待ち受けていたのは、子供にとっては前代未聞の重労働でした。

時に1000個以上もの弁当箱(お重のような立派なもの)を配達し、また回収し、さらにそれを隅々まできれいに洗って磨く。

一斗(いっと)ものお米を炊く。(一斗=100合)

調理に使った大きな鍋や釜を、丹念に洗い磨く。もちろん、お湯や洗剤などはありません。

また、その合間に、ご主人のお子さんの面倒をみたり、別のお店への連絡係になったりと9歳の浪花さんには過酷な労働でした。

さらに追い打ちをかけるように、小さい女の子と見下して、ご主人や、女中や厨房にいる大人たちからのいじめ。

あまりの辛さに、浪花さんは自殺すら考えたそうです。

【おちょやん】モデル・浪花千栄子さん|過酷労働の中で二つの楽しみ

過酷な重労働の日々の中で、浪花さんが決して止めなかったことが二つありました。

一つは『読み書きを勉強すること』です。

当時、食べ物の包み紙として、新聞紙や雑誌で作る袋が使われていました。

浪花さんはこっそり取っておき、それを読んで勉強していたのだそうです。

辞書もなく、教えてくれる大人もいない中で、浪花さんは前後の文脈やふりがなを頼りに、独学で学んだのだとか。

浪花さんはのちに語っています。

「便所の中で勉強をすることだけが、一日の中でもほんのわずか自分を取りもどし、自分もひとりの人間なのだ、ということを自覚する尊い時間でありました…」

そして、浪花さんの楽しみのもう一つは『観劇』でした。

芝居茶屋にお弁当を配達に行くと、芝居を脇からのぞき見ることができたそうです。

浪花さんは見た芝居の台詞、衣装やその着付けなど隅々まで記憶したのだそうです。

【おちょやん】朝ドラのモデルは浪花千栄子さん|【思春期~青年期】泥から芽とつぼみを出す

過酷な幼少期を過ごした浪花千栄子さんは、思春期になると新しい世界に飛び出し、女優になる希望を持ちます。

【おちょやん】モデル・浪花千栄子さん|毒父から逃げ出す

仕出し屋で働き始めて8年。

9歳の『おちよやん』は、17歳に成長していました。

その年の秋、浪花さんに大きな転機が訪れました。

父・卯太郎さんが、浪花さんの賃金目当てに『浪花料理』に現れます。

卯太郎さんは、『浪花料理』から浪花さんを辞めさせ、無理を通して賃金を受け取ると、再び浪花さんを別の店に勤めさせ、その賃金も浪花さんの知らぬ間に自分で受け取ったのでした。

後日、それを知った浪花さん。

「このままではダメだ…」

父から逃げ出すことを決意した浪花さんは、勤めていたお店に詫びの手紙を残し、ひとり列車に飛び乗ったのだそうです。

幼少期からはまった『泥』から抜け出し、浪花さんが自力で世の中へ飛び出した瞬間でした。

【おちょやん】モデル・浪花千栄子さん|向かった先は京都

浪花さんが向かったのは京都でした。

そこで就いた職は、伏見にあった『カフェ』の女給でした。

そこは、仕出し弁当屋時代とは全く異なった環境でした。

化粧をして、きれいな着物を着られることで喜んでいた浪花さんでしたが、やがてその実態に気づきます。

この当時のカフェというのはキャバレーに近く、そこにいる女給といえば今のホステスに近い存在でした。

浪花さんは、媚びを売って日々を送ることに嫌気が差してきました。

一方で、「装い、身づくろいをすれば、少しはチャーミングであるということの発見も出来た…」そんな経験だったと後に回想しています。

【おちょやん】モデル・浪花千栄子さん|女優の道へ『村田栄子一座』

紆余曲折を経て、浪花さんは人気劇団だった『村田栄子一座』に入りました。

『おちょやん』と呼ばれていた頃から芝居に親しんでいた浪花さんは、座長・村田栄子さんの演技を見て、『演技というものの本体』を初めて知ったと語っています。

座長・村田さんを演技の師匠として、身の回りの世話をしつつ、自身も小さな役から少しずつ舞台に出るようになりました。

やがて浪花さんは劇場主に勧められ、入社困難と言われていた映画会社『東亜キネマ』に入社します。

『香住千栄子(かすみちえこ)』という名の女優として就職し、お給料を貰えるようになりました。

しかし、せっかく手にした女優の道でしたが、東亜キネマを自ら飛び出すことになってしまいます。

それは、浪花さんが苦労の中でも自からを律していた一つの『正義』からでした。

いくつもの不条理な事件はありましたが、決定的になったのは経営不振となった東亜キネマのリストラでした。

真面目で才能があるのに、社員にご機嫌を取らないために、良い役を与えられなかった女優がリストラの対象になる一方で、スキャンダルを多発しているだらしない女優がリストラ対象から外されていたのでした。

結局、この不公正が許せず、浪花さんは東亜キネマを飛び出してしまうのでした。

【おちょやん】モデル・浪花千栄子さん|転々とする

浪花さんが次に飛び込んだのは、『帝国シネマ』でした。

しかし、まともな給料を払ってくれないために、すぐに見切りを付けます。

浪花さんは、この時に改めて自らを省みたといいます。

そして、今まで与えられた役を無我夢中でこなしてきたが、自分には演劇の基礎、あるいは技術というものがない事を悟ったといいます。

そんな時期に、『松竹(しょうちく)』を創始した白井松次郎さんの弟・白井信太郎さんが立ち上げた劇団『新潮座(しんちょうざ)』に、浪花さんは入団することになりました。

『松竹』の系列であった『新潮座』は、原健策(はらけんさく)さん(女優・松原千明さんの父)など、当時の実力派の役者が揃っていた劇団でした。

この入団をきっかけに、浪花さんは『松竹』の映画や舞台に出演するようになり、演劇の勉強を深めたのだそうです。

【おちょやん】朝ドラのモデルは浪花千栄子さん|【結婚生活】女優と妻の両方で深い傷

浪花千栄子さんは、運命の人と一緒になることになりましたが・・・

【おちょやん】モデル・浪花千栄子さん|2代目・渋谷天外さんとの結婚生活

浪花千栄子さんは『松竹』を経て、劇団『松竹家庭劇』に入りました。

同劇団は、2代目・渋谷天外(しぶやてんがい)さん(本名・渋谷一雄/しぶたにかずお)が立ち上げた劇団です。

恋に落ちた天外さんと浪花さんは、1930年(昭和5年)に結婚。浪花さんが23歳のことでした。

その後、20年の結婚生活の間、浪花さんは天外さんのために尽くしました。

そして、『松竹家庭劇』や、後に天外さんと実力派・喜劇役者と呼ばれた曾我廼家十郎(そがのやじゅうろう)さん達と結成した『松竹新喜劇』のために、文字通り女房役となって奔走しました。

夫・天外さんは劇団のトップであったことから、浪花さんに良い役を与えると「夫の立場を利用して」と思われかねないと言い、浪花さんには端役しか与えませんでした。

さらに、天外さんの女遊びは結婚前から相当に激しいものだったようです。

最後には、劇団内の新人女優・九重京子(ここのえきょうこ)さんと浮気して同棲まで始め、さらに子供まで作っていたのでした。

さすがに、女優としても妻としても深く傷ついた浪花さんは、天外さんとの離婚を決意します。

1951年(昭和26年)浪花さんが44歳の時に離婚し、同時に『松竹新喜劇』を退団しました。

その後、浪花さんは一時消息を絶ってしまうのでした。

【おちょやん】朝ドラのモデルは浪花千栄子さん|【40代】大輪の花を咲かせる

一切の消息を絶ち、孤独な『その日暮らし』をしていた浪花さんに、驚くべきオファーが届きました。

【おちょやん】モデル・浪花千栄子さん|独り過去を振り返る日々

大阪から姿を消した浪花千栄子さんは、京都府京都市下京区にある仏光寺近くのボロ長屋で過ごしていました。

着る物さえ質に入れ『その日暮らし』をしていたそうです。

浪花さんは、1965年(昭和40年)に自伝『水のように』を出版することになりますが、執筆することを思いついたのは、この頃だったようです。

「家庭を捨て用事がいっぺんになくなりましたので、ずっと過去をふりかえりまして…」と、小説家・谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)さんとの対談で語っています。

そして、谷崎潤一郎さんに出版を強く勧められ、自伝『水のように』が出版されたのでした。

【おちょやん】モデル・浪花千栄子さん|突然のオファーから人気女優へ

浪花千栄子さんが姿を消してから一年後の1952年(昭和27年)のことです。

NHKラジオでは、当時人気の漫才師・花菱アチャコ(はなびしあちゃこ)さんを主人公にした『アチャコ青春手帖』を企画していました。

その時、主人公を演じたアチャコさんが、母親役を本場の大阪弁をしゃべることができる浪花千栄子さんに依頼したいと強く希望したのだそうです。

その意を受けて、消息不明になっていた浪花さんを、NHK大阪放送局の富久進次郎(とみひさしんじろう)さんが必死に探しました。

そして、苦労の末に京都のボロ長屋で、その日暮らしをしていた浪花さんを見つけ出します。

熱心に誘われた末、浪花さんは出演を決意しました。

写真左:花菱アチャコさん、写真右:浪花千栄子さん

浪花さんとアチャコさんのコンビは、1952年(昭和27年)『アチャコ青春手帳』をスタートします。

そして、翌年に『アチャコほろにが物語―波を枕に』、1954年(昭和29年)に『お父さんはお人好し」と次々とヒットを飛ばしました。

特に『お父さんはお人好し』は人気のあまり10年以上の長寿番組となり、映画版も作られたほどでした。

以来、浪花千栄子さんは「大阪のお母さん」、そう呼ばれて人々に親しまれました。

アチャコさんとの一連のドラマに出演して以来、映画への出演依頼がたくさん届きます。

昭和の名優・森繁久彌(もりしげひさや)さんと共演した『夫婦善哉(めおとぜんざい)』や、黒澤明(くろさわあきら)監督の『蜘蛛の巣城(くものすじょう)』など、どの作品でも浪花さんはその実力と存在感を遺憾なく発揮しました。

浪花さんは晩年まで、映画、テレビドラマ、CMなどで活躍しました。

【おちょやん】朝ドラのモデルは浪花千栄子さん|【死去後】葬儀という舞台で女優を貫く

1973年(昭和48年)12月22日、浪花千栄子さんは病気のため66歳でこの世に別れを告げました。

【おちょやん】モデル・浪花千栄子さん|自分の顔を力一杯叩きなさい

浪花千栄子さんの姪であり、養子だった南口輝美(なんこうてるみ)さんは、浪花さんが亡くなる直前に浪花さんにこう言われたそうです。

「私が死んだら、私の顔を力一杯叩きなさい!」

そして、実際に、いつか来る日のために、浪花さんの顔を平手打ちさせていたのだそうです。

それは、女優・浪花千栄子が最後に演じる『葬儀という舞台』のためでした。

浪花さんの葬儀に訪れた人々は、顔を叩かれて血色が良くなった浪花さんの顔を見て、「まるで生きているようだ」と口々に言ったそうです。

浪花千栄子さんは、京都嵐山・天竜寺の塔頭『松厳寺』で安らかに眠られています。

【おちょやん】朝ドラのモデルは浪花千栄子さん|杉咲花が竹井千代として波乱の人生をドラマ化|まとめ

【おちょやん】朝ドラのモデル・浪花千栄子(なにわちえこ)さんの送った、波乱万丈の人生をご紹介させていただきました。

浪花千栄子さんは、苦労という名の泥の中から美しいはすの花を、最後の最後まで何度も咲かせてきたたくましい女性でした。

ドラマ【おちょやん】では、幼少時代から40代までが描かれると発表されています。

また、なお、浪花千栄子さんの生涯をモデルにするものの、大胆に再構成したフィクションとして展開されると発表されています。

NHK朝ドラ【おちょやん】はどんな物語りになるのか楽しみです~♬

◆【おちょやん】のモデル一覧はコチラ▶

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