NHK連続テレビ小説・朝ドラ【おちょやん】(2020年11月30日スタート)に、人気俳優の成田凌(なりたりょう)さんが出演します。
成田凌さんが演じる天海一平(あまみいっぺい)のモデルは、上方を代表する喜劇俳優で劇作家の2代目・渋谷天外(しぶやてんがい)さんです。
ここでは、朝ドラ【おちょやん】天海一平のモデル・2代目渋谷天外さんについてご紹介します。
NHKおちょやん
【おちょやん】のモデル2代目渋谷天外|【はじめに】日本の喜劇と父『初代・渋谷天外』
NHK朝ドラ第103作【おちょやん】で、成田凌さんが演じる天海一平は、ヒロイン千代(杉咲花)の結婚相手です。
そして、一平のモデルは、『2代目・渋谷天外』(しぶやてんがい)さんです。

2代目・渋谷天外さん
『2代目渋谷天外(しぶやてんがい)』さんの本名は、『渋谷一雄(しぶたにかずお)』さんといいます。
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|近代日本の喜劇の歴史とは
2代目渋谷天外さんの話をするためには、当時の日本の喜劇について、ちょっとだけ知っておく必要があります。
少しだけお付き合い下さいね。
日本には江戸時代から続くお笑い演劇「俄(にわか)」、「俄芝居(にわかしばい)」というのがありました。
明治時代になって、この俄芝居を劇として進化させた「改良俄(かいりょうにわか)」という演劇スタイルを作り、大人気となったのが、『鶴家団十郎(つるやだんじゅうろう)』さんという役者でした。
この人が、『2代目・渋谷天外』さんの父『初代・渋谷天外』さんの師匠です。
さて、この鶴家団十郎さんと同じ時期、「笑う芝居(喜劇)」を目指した人に『曾我廼家五郎(そがのや ごろう)』さん、『曾我廼家十郎(そがのや じゅうろう)』さんという人たちがいました。

曾我廼家五郎氏・十郎氏
もちろん、おふたりとも芸名です。兄弟でもありません。
この二人で明治37年(1904年)に『曾我廼家兄弟一座(そがのやきょうだいいちざ)』というお笑い劇団を結成し、大ヒットとなりました。
これこそが、大坂の喜劇の始まりだと、2代目渋谷天外さんは後に語っています。
そして、ご本人も、二人の芸風に強い影響を受けて育ちました。
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|父・初代渋谷天外と『楽天会』

初代・渋谷天外さん
2代目・渋谷天外さんの父、初代・渋谷天外さんについてご紹介します。
初代・渋谷天外さんは、『鶴家団十郎』さんの劇団に入り喜劇役者となりました。
最初は、『鶴家団治(つるや だんじ)』と名乗っていたそうです。
一方、同時期に人気があった『曾我廼家兄弟一座』に在籍していたのが、『曾我廼家箱王(そがのや はこおう)』という人です。
この二人が出会い、明治41年(1908年)に結成したのが『楽天会(らくてんかい)』という喜劇の劇団でした。
『楽天会』では、『鶴家団治』さんが改名して『渋谷天外(しぶや てんがい)』と名乗るようになります。
そして、『曾我廼家箱王』さんも改名して、『中島楽翁(なかしま らくおう)』と名乗り始めました。
この『楽天会』を支援してくれたのが、『松竹(まつたけ)合名会社』(現在の映画・演劇会社『松竹(しょうちく)』)創設者の一人、白井松次郎(しらいまつじろう)さんという人でした。
この松次郎さんは、天外の初代、二代目とも後々まで支援した人でした。
【おちょやん】のモデル2代目渋谷天外|【少年期】有名喜劇役者の息子として
これより、2代目渋谷天外さんの76年の人生をひもといていきます。
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|喜劇役者と髪結いの息子
2代目・渋谷天外(しぶや てんがい)さんは、明治39年(1906年)6月7日に大阪で生まれました。
天外さんのお母さんは、『髪結い(現在の美容師)』でした。

当時の髪結いのイメージ
しかし、どういった理由があったものか、生後3ヶ月の天外さんを残し、離婚し実家に帰ってしまいます。
その後、天外さんは、父と同棲していた和裁士の『北村ウノ』さんに育てられました。
幼い天外さんは、ウノさんを本当の母親だと信じて成長したのだとか。
ウノさんは、京女の優しさと賢母型の両方をそなえた、美しい人だったそうです。
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|わずか8歳で初舞台
恥ずかしがり屋だった天外さん。
役者になるなんて考えもせず、工業高校へ進学するつもりでいたそうです。
天外さんは、役者という職業を好きにはなれなかったそうです。
しかし、父の舞台で、急病になった子役の代役として、無理矢理、しかも8才で初舞台を踏まされます。
それ以来、父の舞台で子役として活躍するのでした。
当初こそ戸惑っていた天外さんですが、客がチヤホヤしてくれるので「役者て、なかなかええもんやなァ」と思ったのだそうです。
周りがちやほやしてくれるのは、人気役者『初代・渋谷天外』の子どもであったことは後から知ったそうです。
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|父の死と転落
天外さんが舞台デビューしてから2年後の1916年(大正5年)のことです。
なんと、父(初代渋谷天外)が、公演先の名古屋で37歳の若さで病死してしまいました。
父は「一雄を頼む、一雄を頼む」と、叫びながら亡くなったのだそうです。

初代・渋谷天外さんと中島楽翁さん
さらに、4年後の大正9年には、父とコンビを組んでいた『中島楽翁』さんも病死。
トップの2人を失った『楽天会』は勢いを無くし、ついには解散してしまいました。
天外さんが16才の時の事でした。
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|16歳で酒・タバコ・キャンブル・女遊び
『楽天会』が解散し、それまでチヤホヤしてくれた人たちは、天外さんのもとからあっという間に去っていきました。
天外さんの世話は、父の頃から深い関係があった芝居茶屋『岡島(おかじま)』が、面倒を見ていました。
そのため、16歳の独り身ながら、生活に困ることはなかったようです。
ただ、天外さんは周りの影響で早々に、酒、たばこ、ギャンブル、女遊びを覚えてしまいます。
「しようのない半大人が出来上がってしまった」と、後に天外さん自身が語っています。
お金がない生活が続いた天外さん。
役者を辞めて働こうと決意して、父の知人に頼みに行きます。
しかし、そこでうっかり居眠りをしてしまい、こっぴどく叱られてしまうのでした。
【おちょやん】のモデル2代目渋谷天外|【青年期】脚本家からの出直しと結婚
役者をやめようとしていた2代目・渋谷天外さんは、父の仲間のアドバイスにより出直すことに。
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|十郎さんのアドバイスと文吾さんとの出会い
身の振り方に困った天外さんは、『曾我廼家十郎(そがやの じゅうろう)』さんに相談に行きました。
曾我廼家十郎さんは、亡くなった父と共に『楽天会』を結成した『中島楽翁』さんの師匠です。

曾我廼家十郎氏
すると、十郎さんは意外なことを言い出します。
「脚本の勉強してみい」
小学校すら卒業していないのに「脚本なんて…」と天外さんは躊躇します。
しかし、十郎さんは「人間、自分の一生をつづっただけでも脚本は書ける」と天外さんを励ましたのでした。
一週間かけて必死に脚本を書いた天外さんは、十郎さんに見せにいきました。
タイトルは『私は時計であります』。
すると、なんと十郎さんはこの脚本を上演してくれたのでした。
この時、自分が書いた物が舞台になった喜びを、天外さんはしみじみと感じたのだそうです。
これがきっかけで、天外さんは大正11年(1922年)には、『志賀廼家淡海(しがのや たんかい)一座』に役者兼脚本家として加わりました。
その、翌年の事。
天外さんは、再び十郎さんにアドバイスをもらったのです。
それは、九州にいる『茂林寺文福(もりんじ ぶんぷく)』さんに会ってこいというものでした。
文福さんは、かつて十郎さんの劇団に所属していた人で、役者としても脚本家としても実力派の人でした。
天外さんの父とも交流があり、天外さんの子守もしたことがあったのだとか。
この文福さんが、後々まで天外さんとコンビを組むことになる『曾我廼家十吾』さんです。

曾我廼家十吾さん
ちなみにこの名前は、色々事情があって『そがのや とおご』とも『そがのや じゅうご』とも読みます。
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|『松竹家庭劇』の旗揚げと『渋谷天外』の襲名
十吾さんが、劇団を立ち上げるから一緒にやろうと天外さんに声をかけました。
資金を含め、バックアップをしてくれたのは、あの『松竹』の白井松次郎さんでした。

白井松次郎氏
この人は、父『初代渋谷天外』の『楽天会』の後援もしていました。
そして立ち上げられた劇団が『松竹家庭劇』でした。
昭和3年(1928年)9月、天外さん23才の時のことです。
そして、翌年の昭和4年(1929年)、舞台で天外さんは『渋谷天外』を襲名し、正式に『2代目・渋谷天外』となりました。
ただ、この襲名によって、天外さんは父の莫大な借金を相続しなければならなくなってしまったのです。
とはいえ、襲名して「七光りでトクしました」ともちゃっかり言っているので、悪いことだけではなかったようですよ!
『松竹家庭劇』結成の翌年には、後の妻となる『浪花千栄子(なにわ ちえこ)』さんが劇団に加わりました。

【おちょやん】モデル・浪花千栄子さん
ちなみに、浪花さんは喜劇が嫌いだったそうで、『松竹』に言われて仕方なく劇団に入ったのだとか。
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|浪花千栄子さんと結婚
天外さんは、その頃も芝居茶屋『岡島』に居候していました。
実は『岡島』の向かいには、浪花千栄子さんが幼い頃に女中奉公していた、仕出し弁当屋の『浪花料理(なにわりょうり)』がありました。
浪花さんは、女中奉公時代に『岡島』にも弁当の配達に行っていたのだそうです。
そんな、浪花さんは女優になっても十分な給料がもらえず、女優業とは別に、『岡島』に住み込みで働いていました。
つまり、天外さんと浪花さんは劇団も一緒で、住まいも同じ。
同居も同然だった二人は、昭和5年(1930年)ごろに結婚したそうです。
正式に入籍し発表したのは、9年後の昭和14年(1939年)のことでした。
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|第1次『松竹家庭劇』の解散
『松竹家庭劇』は3周年記念興行をした直後の、昭和6年(1931年)にいきなり解散します。
天外さんは、解散の原因については触れていないようですが、世間では、天外さんと十吾さんのケンカ別れが原因とされているみたいですね。
確かに、新しい喜劇を造り上げたい天外さんと、古い喜劇である「俄(にわか)」の伝統を大事にする十吾さん。
喜劇に対するスタンスや考え方の違いから、一緒に活動している間はしょっちゅうケンカしていたらしいです。
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|第2次『松竹家庭劇』の結成
解散した『松竹家庭劇』は、『松竹』の尽力もあり、翌年6月に再建されました。
再び、天外さんと十吾さんがコンビを組み、「面白く、新しく、明るく、美しく、朗(ほが)らかに」の5つのモットーに動き出しました。
しかし、やがて日本は戦争の時代に突入します。
『松竹家庭劇』も、本拠地にしていた『中座』が空襲で焼けるなどし、大きな打撃を受けたのでした。
【おちょやん】のモデル2代目渋谷天外|【壮年期】松竹新喜劇の設立と離婚、再婚
戦後、2代目・渋谷天外さんは、公私ともに目まぐるしい時を迎えることに。
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|『松竹家庭劇』を飛び出す
終戦の翌年、昭和21年(1946年)5月のこと。
大事件が起ったのです。
天外さんが『松竹家庭劇』に脱退届をたたきつけたのです。
「十吾さんと、たもとを分かつケンカをした」と、後に天外さんは理由を語っています。
これまでも何度も対立しながらも、仲直りしてきた天外さんと十吾さん。
しかし、天外さんは「新しい喜劇を作るために」と、ついに十吾さんとの別れを決意したのでした。
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|劇団『すいと・ほーむ』
天外さんは、妻・浪花千栄子さんをつれて、再び『松竹』の白井松次郎さんの支援を受けます。
天外さんが作ったのが、劇団『すいと・ほーむ』でした。
そして、その劇団を率いて、全国巡業の旅に出ます。
この旅は、天外さんを一回りも二回りも成長させたようです。
さて、天外さんが巡業中の昭和23年(1948年)11月1日のことです。
父とも深い親交があり、父と共に活躍した『曾我廼家五郎(そがやの ごろう)』さんが病死しました。
巡業先の徳島でその知らせを受けた天外さんは、すぐさま『すいと・ほーむ』を解散し大阪へと戻ったのでした。
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|『松竹新喜劇』の設立
昭和23年(1948年)の事。
『松竹』主導により、3つの劇団が一つになった『松竹新喜劇』が立ち上がりました。
その3つとは、天外さんが以前に所属していた『松竹家庭劇』と、天外さんの『すいと・ほーむ』、そして亡くなった五郎さんの劇団『曾我廼家五郎劇(そがのやごろうげき)』でした。
さらに、それ以外の劇団のメンバーも加わり、大きな劇団として再スタートしたのでした。
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|天外さんと浪花千栄子さんの離婚
しかし『松竹新喜劇』は、最初から順調とはいきませんでした。
最初に起きた問題は、天外さんと浪花千栄子さんの離婚でした。
元々天外さんは「女性関係がとても多くて、もらったお金はほとんどそちらへ…」と、浪花さんがのちにインタビューで語るほどでした。
天外さんは、新人女優の『九重京子(ここのえ きょうこ)さんと浮気し、なんと子どもまで作ってしまったのです。
結果、浪花さんとは20年の結婚生活の末、離婚となりました。
ちなみに当時のことを天外さんは、「私にとっては、四十四才になって始めて子どもを得たのであるから、もう何もかも捨ててもかまわないという気持ちにならざるを得なかった…」と、言い訳しています。
『松竹新喜劇』は看板女優を失い、人気が落ちるかのようにみえました。
しかし天外さんいわく、名実ともに看板女優であった浪花千栄子さんを失ったから「若い女優がぐんぐん伸びていった」と、天外流の理屈を語っていたそうです。
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|曾我廼家十吾さんの脱退
もう一つの大きな事件は、昭和31年(1956年)の十吾さんの『松竹新喜劇』退団でした。
さすがの天外さんも、これにはつくづく参ったそうです。
この脱退も、日常的に起きていた十吾さんとのケンカがひどくなり、ついに十吾さんの脱退となってしまったようです。
ただ、時を経て昭和45年(1970年)になり、64歳になった天外さんは『松竹新喜劇』で十吾さんと共に舞台を踏んでいます。
【おちょやん】のモデル2代目渋谷天外|『松竹新喜劇』の隆盛と天外さんの危機
解散の危機を乗り越えた『松竹新喜劇』は人気劇団へ。しかし・・・
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|『松竹新喜劇』と共に
解散の危機をなんとかやりすごしつつ、天外さんと『松竹新喜劇』は、次第に人気を呼ぶようになりました。
特に昭和30年代は、天外さんにとっての全盛期となりました。
『NHK放送文化賞』などの賞も受賞し、自身も看板俳優として舞台に立ちながら、脚本家としても活躍。
ラジオやテレビ、映画、さらには他の劇団の脚本まで頼まれたら引き受け、書き続けたのです。
ちなみに、天外さん名義での作品は556篇にものぼり、合作なども加えれば、生涯で1000篇以上あったようです。
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|脳卒中に倒れる―『松竹新喜劇』の危機
天外さんは多忙を理由に、ろくな食事は取らず、酒を浴びるように飲み、女遊びもするという実に不健康な生活を続けます。
その結果、ついには1965年(昭和40年)、『松竹新喜劇』の絶頂期の公演中に『脳卒中』を起こしてしまったのです。
このため半身麻痺という、役者としては致命的な後遺症が残りました。
それでも天外さんは1日8時間に及ぶリハビリをこなし続けたのだそうです。
しかし、その間に劇団が大変なことになっていました。
看板俳優であり脚本家であった天外さんを失って、『松竹新喜劇』は人気がずるずると落ちていったのです。
その時に劇団を支えたのは、『藤山寛美(ふじやま かんび)』さんでした。

藤山寛美さん
看板役者となっていた藤山さんの頑張りによって、『松竹新喜劇』は建て直しされていくのでした。
【おちょやん】のモデル2代目渋谷天外|【晩年】脳卒中を乗り越え生涯役者を貫く
脳卒中で倒れた天外さんですが、それを乗り越えて生涯役者を貫きました。
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|天外さん、逝く
『脳卒中』で倒れた後、必死にリハビリを続けた天外さん。
倒れてから2年後の1967年(昭和42年)に、後遺症が残りながらも何とか舞台に復帰を果たしました。
その後、生涯に渡って役者と脚本家であることを通します。

(左)藤山寛美さん、(右)2代目・渋谷天外さん
そして、1983年(昭和58年)3月18日、病により76年の人生を閉じました。
棺の中で、天外さんは薄化粧をして大好きだったハンチング帽に眼鏡をかけていたそうです。
まるで、舞台に立っている姿そのままだったのだとか。
まさに、波乱万丈・破天荒を絵に描いたような人生を送った2代目・渋谷天外さんなのでした。
【おちょやん】モデル・2代目渋谷天外|成田凌さんが演じる破天荒人生とは?|まとめ
朝ドラ【おちょやん】のモデルの一人・2代目渋谷天外さんついてご紹介しました。
この2代目・渋谷天外さんを、一時支えたのが【おちょやん】のモデル、女優・浪花千栄子さんでした。
【おちょやん】では、天外さんの破天荒ぶりがどこまで描かれるのか興味深いところですね。
そして、天外さんをモデルとした『天海一平』役を演じるのは成田凌(なりたりょう)さんです。
このキャスティングはズルイ! 目に余るようなひひどい振る舞いをしても、「凌さまなら仕方ない」と許せてしまいますものね。
成田凌さんの一挙一動に超・期待で~す♬~
◆ヒロインのモデル・浪花千栄子さんの波乱万丈な人生はコチラ▶