【おちょやん】の鶴亀のモデルは、映画・演劇の制作や興行を手掛ける『松竹(しょうちく)株式会社』。
元は『松竹(まつたけ)合名会社』という、小さな会社から始まりました。

左・松次郎/右・竹次郎
この『松竹』を作ったのが、双子の兄弟、兄・松次郎(まつじろう)さんと、弟・竹次郎(たけじろう)さんでした。
二人の名前から取って、『松竹(まつたけ)』だったわけです。
今回はこの『兄・松次郎』さんのプロフィールを探ります。
【おちょやん】鶴亀のモデル白井松次郎とは?興行主の家庭に生まれた兄弟
興行主・大谷家の長男として生まれ、兄でありながら白井の姓を名乗った経緯とは。
十代で演劇の世界に生きる
松次郎さんと竹次郎さんは双子の兄弟です。
明治10年(1877年)12月13日、現在の京都市に生まれます。
父は相撲の興行主をやっていた、大谷栄吉(おおたにえいきち)さん。
この時は、松次郎さん竹次郎さん共に大谷姓を名乗っています。
兄である松次郎さんは、明治28年(1895年)、まだ18才のときに、すでに劇団を率いて地方巡業をしています。
1897年(明治30年)二十歳の時にはその功績が認められて、京都夷谷座(えびすざ)の売店主・白井亀吉(しらい かめきち)さんの養子になり、『白井松次郎』と名乗るようになりました。
演劇界の大改革をめざす
松次郎さんは25才の若さで、弟の竹次郎さんとともに劇場の経営改革と演劇の改良運動に乗り出します。
劇場の経営改革とは?
たとえば、劇場の近くには今でいうヤクザがうろうろしており、来る客をからかったり脅したりして険悪な環境を作っていました。
劇場は、これを止めてもらうために、いつも大金を払わなければいけませんでした。
そこで、松次郎さんと竹次郎さんは、ヤクザを一掃するようにしました。
そのために、恨まれることも多々ありました。
兄・松次郎さんはヤクザの親分に呼び出され脅されたことも頻繁にあったそうです。
そして、弟・竹次郎さんは警察に願い出て護身用の拳銃を持つ許可をもらったといいます。
まさに、血気盛んな兄弟の命がけの行動でした。
このエピソードだけでも、ドラマになってしまいそうですよね。
また、劇場や役者のマナー改革も進めていきました。
二人は、役者に対し厳しくルールを守らせ、古い因習を取り払いオープンな賃金体系を用意するなど、まさしく演劇を取り巻く環境からも近代化を図りました。
今では当たり前のことが、この兄弟の未来志向のお陰で早期に実現したのでした。
『曾我廼家兄弟一座』と『楽天会』
松次郎・竹次郎の二人は、劇場買収や劇団の合併などを通し多くの劇団の支援をしています。
中でも、松次郎さんがバックアップをした有名な喜劇団として、曾我廼家五郎(そがのやごろう)さんと、曾我廼家十郎(そがのやじゅうろう)さんの劇団『曾我廼家兄弟一座』があります。(芸名で、本当の兄弟ではありません)
そして、中島楽翁(なかしまらくおう)さんと、初代・渋谷天外(しぶやてんがい)さんの劇団『楽天会(らくてんかい)』の支援もあります。
【おちょやん】のか中でも、そんなエピソードが盛り込まれているかの知れません。
後に、『曾我廼家兄弟一座』は大正3年(1914年)に分裂、『楽天会』大正11年(1922年)には解散してしまいます。
しかし、その後もそれらの関係者をまとめつつ『松竹新喜劇』へと発展させていきました。
【おちょやん】鶴亀のモデル白井松次郎とは? 2代目渋谷天外との関係
今回の朝ドラ【おちょやん】の中心人物の一人、天海一平のモデルとされる2代目・渋谷天外さとの関係を探ります。
『2代目・渋谷天外』の誕生
松次郎さんが目を付けたのが、『初代・渋谷天外』の息子、『渋谷一雄(しぶたに かずお)』さんでした。
松次郎さんはまず、一雄さんに『渋谷天外』を襲名させ、『2代目渋谷天外(しぶやてんがい)』を名乗らせました。
『松竹家庭劇』の設立と解散

松竹家庭劇での一場面
松次郎さんは、この2代目・渋谷天外さんと、『曾我廼家兄弟一座』にいた曾我廼家十吾(そがのやじゅうご)さんをトップにして、新しいタイプの劇団を根付かせようと計画します。
そして、昭和3年(1928年)9月、『松竹家庭劇』という喜劇の劇団をつくるのでした。
(以下、『天外さん』『十吾さん』と記載)
「家庭」という言葉は、当時「home」の訳語として広まった言葉でした。
「喜劇にホームドラマの要素を入れる」という意味で、『松竹家庭劇』と名付けたのだそうです。
関西を拠点としていたこの劇団は、やがて人気も上々となります。
しかし、天外さんと十吾さんの演劇をめぐっての対立が原因で、二度にわたって解散する事態になりました。
『松竹新喜劇』の誕生

現在の『松竹新喜劇』ステージ風景
戦後間もない、昭和23年(1948年)のこと。
演劇も復興してくるかと思われた時に、それまで『松竹』が支援していた曾我廼家五郎さんが亡くなってしまいました。
そこで、松次郎さんはもう一度天外さんと十吾さんをトップにした、『松竹新喜劇』を設立します。
昭和23年(1948年)12月のことでした。
初稽古の日には、天外さんや十吾さん、役者全員がコスプレをして大坂のミナミをねり歩いたのだとか。
さらに、「コスプレして一般人に交ざっている役者を見つけて、劇場『中座』まで連れてきたらプレゼント!」という新聞広告を掲載したのだそうです。
さすが松次郎さん、なかなかのアイディアマンです。
しかし、最初の数年は赤字続きで、なかなか上手くいかなかったそうです。
そのため松次郎さんは、周囲から何度も『松竹新喜劇』をたたむように勧められたのだそうです。
しかし、松次郎さんは人気が出てくるまで、根気よくこの劇団を支援し続けました。
やがて、庶民の暮らしにも余裕が出てくると、一気に人気は急上昇します。

1960年代、天外(右)・寛美のTV番組「親バカ子バカ」が大ヒット。松竹新喜劇は全国区で大躍進!
松次郎さん、逝く
白井松次郎さんは、『松竹新喜劇』の発展を見守りつつ、歌舞伎や文楽などの伝統芸能をも支援し、演劇界で様々な活躍をします。
そして、昭和26年(1951年)1月23日に、75歳の人生を閉じるのでした。
没後勲四等瑞宝章を追贈されました。
【おちょやん】鶴亀のモデル白井松次郎とは?松竹の創業者で演劇界近代化の立役者!|まとめ

松次郎と竹次郎のイメージ
松次郎さんと竹次郎さん。
このお二人は、戦前から戦後にかけて、新しい時代に向けた「演劇」や「劇場」を作り出したすごいご兄弟なんですね。
そして『2代目・渋谷天外』さんの次男は、『3代目・渋谷天外』さんとして、現在『松竹新喜劇』の代表を務め、座長もなさっています。
これも、白井松次郎さんの取り持つご縁が、今も続いていることの現れですね。