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「あさが来た」あさのモデル広岡浅子は屈指の女性実業家!

 

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▮ドラマの中でのあさ

「あさが来た」のヒロイン・今井あさは、幼い頃からおてんばで元気な女の子でした。あさが生まれた今井家では、娘が幼いうちに許嫁(いいなすけ)を決める慣例がありました。年頃の娘に育ったあさは、大阪で有名な両替商・加野屋(白岡家)の次男・白岡新次郎に嫁ぎます。夫の新次郎は家の商いには無関心で、三味線や茶道などの趣味に明け暮れる毎日。そんな夫に代わり、あさが加野屋の仕事を切り盛りします。

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幼少期のあさ         実業家のあさ

 

▮あさのモデル・広岡浅子(旧姓・三井浅子)とは

あさのモデルとなった広岡浅子は、明治時代を代表する女性実業家として有名です。賢く才能があり、また勇ましい性格だった事もあり、「一代の女傑」とも呼ばれました。
そんな浅子は、1849年10月18日、京都の名家・小石川三井家の6代当主・三井高益(あさのお爺ちゃん・忠政のモデル)の4女として生まれます。幼い頃から、裁縫や茶道・華道といったものよりも学問に興味を持つ少女でした。(あさが来たでは、7代当主・忠興の次女設定)

17歳になると、2歳の頃に決められた許嫁である大阪の両替商・加島屋の次男・広岡信五郎(新次郎のモデル)に嫁ぎます。商売に関心が無い夫に代わり、加島屋を切り盛りしていきます。(あさが来たでは、あさは15歳、はつは17歳で嫁ぎます)

明治維新の動乱期に入り、幕府が崩壊。諸大名への貸付金が返済されず、両替商だった加島屋は経営の危機に陥ります。この頃、夫の弟・正秋(榮三郎のモデル)が加島屋の新しい当主となり、浅子は融資先の諸藩に取り立てに出向くなどして、加島屋の為、正秋を支える為、夫と共に東奔西走します。(あさが来たでは、夫の父・正吉の下で奮闘します)

加島屋は、そういった浅子の尽力もあり何とか難を逃れますが、大阪の多くの両替商が倒産していきました。その中には、広岡浅子の姉・春(はつのモデル)の嫁ぎ先・天王寺屋もあったのです。

あさが来た_あさ51掲載その後は炭鉱事業に携わり、筑豊の潤野炭鉱の買収・開発に動き出します。

その際、護身用の拳銃2丁を手に一人で炭坑に乗り込み、気の荒い坑夫達と共に生活したとされ、男性も顔負けの度胸と行動力があった事が伝えられています。
潤野炭鉱はその後、産出量が増加し、優良事業として結果を残しています。

1876年、一人娘の亀子(千代のモデル)を出産します。
1888年、加島銀行を設立。広岡正秋が頭取となり、数字や経営について独学で学んでいた浅子も経営に大きく携わります。

1896年、梅花女学校の校長・成瀬仁蔵(成澤泉のモデル)の著書「女子教育論」と彼の考えに共感し、女子高等教育機関の設立の為、自ら寄付をし、政財界の有力者に協力を呼びかけるなどの支援を行います。広岡家や実家の三井家にも働きかけ、三井家からは文京区目白台の土地を寄付してもらいます。

1901年、その土地に日本女子大学校(現在の日本女子大学)が開校され、広岡浅子は女子教育の先駆者となります。
1902年、大同生命の創業に参画。ここから加島屋は大阪の有力な財閥、広岡財閥となっていきます。

その後、夫を亡くした浅子は、全ての事業を娘婿の広岡恵三に譲り、自身は社会貢献に専念します。そして、1911年には、成瀬仁蔵の影響もあり、洗礼を受けてクリスチャンとなります。その後も精力的に活動し、亡くなる直前まで、女性の地位向上の為に尽力しました。

こうした事から、女性が社会で活躍する事が難しい時代に、女性実業家としての広岡浅子の名が広く知られることになったのでした。

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