NHK朝ドラ第105作【カムカムエヴリバディ】。
カムカムエブリバディのヒント・モデルとなった平川唯一(ひらかわただいち)さんは、「カムカムおじさん」と呼ばれ、日本に英語を広めた第一人者と言われています。
歌手・さだまさしさんがドラマで演じる、平川唯一さんの実話をご紹介します。
カムカムエヴリバディのモデル平川唯一さんの実話|演じるのは歌手・さだまさしさん
脚本家・藤本有紀さんのオリジナル作品の【カムカムエヴリバディ】は、3人のヒロインが紡ぐ100年の物語です。
物語のキーマンとなるのが、戦後『ラジオ英語講座』で講師を務める平川唯一(ひらかわただいち)さんという実在の人物です。

【カムカムエヴリバディ】モデル・平川唯一さん
平川さんは、「カムカムおじさん」の愛称で親しまれた方で、日本の英語教育の先駆者と呼ばれています。
そして、ドラマの中で、平川唯一役を演じるのは、歌手・さだまさしさんです。
朝ドラ初出演となるさださんはトークの達人と呼ばれ、テレビやラジオ、ライブでのトークは人気です。

平川唯一役・さだまさしさん
カムカムエブリボディの物語に登場する3人のヒロイン(上白石萌音さん、深津絵里さん、川栄李奈さん)と、平川唯一がどのように関わっていくのか注目が集まります。
カムカムエブリバディのモデル平川唯一さんの実話|生い立ちとアメリカ時代
朝ドラ【カムカムエブリバディ】のモデルとなった、平川唯一さんの生い立ち・実話についてご紹介していきます。
【カムカムエヴリバディ】モデル・平川唯一さん|岡山に生まれる
平川唯一(ひらかわ ただいち)さんは、明治35年(1902年)2月13日、岡山県上房郡津川村(現在の高梁市)の農家の次男として誕生しました。
父親の定二郎さんは、少しでも生活を楽にしようと商売に手を出しますが失敗し、多額の借金を負うことになったそうです。
小学生だった平川少年はとても優秀だったそうですが、父親の借金で家計に余裕がなくなったため、泣く泣く中学進学を諦めました。
平川少年は津川尋常高等小学校高等科を卒業すると、実家の農業を手伝い始めます。
熱心に仕事に向き合い、休みは盆と正月と年に2回のお祭りのみ。
とても真面目で働き者だった少年時代でした。
【カムカムエブリボディ】モデル・平川唯一さん|16歳でアメリカへ
日本で商売に失敗し、多額の借金を負った父親の定二郎さんは、なんと出稼ぎのためにはるばるアメリカへ渡りました。
アメリカで鉄道の保線作業の仕事をはじめた定二郎さん。
しかし、一向に帰国しないため、故郷で待ちわびていた平川唯一さんは激怒します。
そして、寂しい思いをしている母親のために、父親に手紙を出しました。
「帰ってこなければ、こちらが行く!」と。
その後、父親から届いた手紙は予想外の返事でした。
「アメリカへ来ないか」
父の誘いに乗った平川さんは、16歳だった1918年(大正7年)に、兄・隆一さんと共にアメリカへ渡りました。
アルファベットすら知らずに異国に行った平川さんは、父・定二郎さんと一緒にポートランドで、鉄道の保線作業の仕事を始めました。
その1年後、母親を思う平川さんは、父親を日本へ帰国させました。
【カムカムエブリバディ】モデル・平川唯一さん|書生になったジョー
アメリカに残った平川さんは、今度はシアトルの日本人向け商店で働き始めます。
しかし、アメリカで生きていくためには、英会話の上達が必須だと思い直し、最終的に英会話習得に専念するため仕事を辞めてしまいます。
その後、縁があって知り合ったシアトルの高級住宅街に住むアメリカ人・ハモンドさんの家に、『スクールボーイ(書生)』として置いてもらうことになりました。
ちなみに平川さんは、ハモンド夫人に「ジョー」というアメリカ名を付けてもらったそうです。
【カムカムエヴリバディ】モデル・平川唯一さん|6歳の子どもたちと学ぶ
ろくに英会話ができない平川唯一さんは、17歳の時にシアトルのスーウェド小学校に入学しました。
英会話を習得するためには、アメリカの小学校に入学するのが最短だと考えたのです。
小学校では、6歳の子どもたちと一緒に机を並べて学ぶ生活でした。
幸いにも平川さんは、学校で差別を受けることもなく、生徒や教師にも恵まれ、英会話を習得できたと語っています。
もともと優秀だった平川さんは、英会話を習得すると飛び級で進学。
そして、8年で通う小学校を3年の短期間で卒業することができました。
その後、平川さんは高校へ進学することを決意したのでした。
【カムカムエヴリバディ】モデル・平川唯一さん|高校入学と雄弁大会
高校(ブロードウェイ・ハイスクール)へ進学した平川唯一さん。
年齢に関係なく、意見をぶつけ合う刺激的な校風に驚きを隠せなかったそうです。
そこで、高校の恒例行事である『雄弁大会』に出場することを目標にし、より一層と英会話の勉強に励んでいきました。
毎晩、ひとけのない荒野の丘の上で、大声で演説の練習を始めたのだとか。
そんなある日、大声で叫んでいる怪しい人物だと誤解され、警察に通報されてしまいます。
平川さんは、必死で高校の雄弁大会のスピーチの練習であると説明を始めました。
たまたま警察官が同じ高校出身だったこともあり、何とか誤解を解くことができたそうです。
最終的には、警察官にもスピーチを応援してもらい、ことなきを得たと平川さんは振り返っています。
一方、大声で叫んでいた件が新聞に掲載されてしまったのだとか。
瞬く間にそのニュースは広まり、高校でかなりの有名人になったそうです。
そんな騒動を乗りこえながら、スピーチの練習を続けた平川さんは、4年生の時に念願だった弁論大会にエントリーを果たします。
劇的な優勝を果たし・・・となれば良かったのですが、実話は予選を勝ち抜いて決勝戦に進出したものの、優勝はできませんでした。
しかし、審査員3人のうち1人が1位投票してくれたこともあり、結果に満足することができたと平川さんは語っています。
【カムカムエブリバディ】モデル・平川唯一さん|大学で演劇科に転向
高校を無事に卒業した平川唯一さんは、今度はワシントン大学へ進学しました。
一人で黙々と作業することが大好きな平川さんは、発明王のトーマス・エジソンのようになろうと、『物理学』を専攻しました。
しかし、成績は徐々に低迷し、物理学で勝負していくのは厳しいと考え始めます。
そんな平川さんは、なんと2年生の頃に『演劇科』へ転向を決断します。
人前で話すことが苦手であるにも関わらず、平川さんは新たな挑戦を始めました。
演劇科では発声学や脚本の技術も習得することができ、結果的に充実した時間を送ることができたと平川さんは振り返っています。
たがて、小劇場で開催された舞台『ペール・ギュント』に初出演を果たし、ツロール・キング役を演じます。
同劇は小劇場が始まって以来の大ヒットとなり、2カ月以上舞台に出演したそうです。
時が過ぎ、1935年(昭和10年)。
平川さんは、ワシントン大学演劇科を主席で卒業しました。
12年余に渡る異国での学生生活を振り返った平川さんは、故郷での働きづめだった生活と比べて、「苦学というより楽学でした」と語っています。
【カムカムエブリボディ】モデル・平川唯一さん|ハリウッド映画に出るジョー平川
大学を卒業した平川唯一さんは、ロサンゼルスに移り住みました。
セントメリーズ・チャーチ教会の副牧師になった平川さんは、日米文化の伝達に努めるようになります。
そして、この教会で出会ったのが、妻となる滝田よねさんです。
東京神田出身のよねさんと平川さんは、出会ってから間もなくの1935年に結婚しました。
この頃の平川さんは、『Joe Hirakawa(ジョー平川)』の名で俳優活動もしていました。
『マダム・バタフライ』、『ダイヤモンド島の謎』などのハリウッド映画や、パサディナ小劇場の舞台公演などに出演していたそうです。
そして、結婚翌年に、平川夫妻に長男が誕生します。
長男の誕生をきっかけに、平川夫妻は、母国・日本に帰国することを決断したのでした。
カムカムエヴリバディのモデル平川唯一さんの実話|カムカム英会話
ここからは、アメリカから日本に帰国した平川唯一さんの、戦中から戦後にかけての実話をご紹介します。
【カムカムエヴリバディ】モデル・平川唯一さん|難関突破でNHKアナウンサーに
1937年(昭和12)年に、妻と息子と一緒に帰国した平川唯一さん。
平川さんはNHKラジオの入社試験を受けることを決意します。
しかし、過去にニュースの原稿を書いた経験もなく、解説などを注視して聞いたこともありません。
急いで試験対策に臨みますが、準備が不十分なまま試験当日を迎えたそうです。
しかし、偶然にも海外向けニュースの翻訳問題が出題され、平川さんは力を発揮することができました。
その結果、受験者50数人の中から選ばれた2名の合格者となりました。
見事に狭き門を突破した平川さんは、『NHK国際放送』のチーフアナウンサーになり、外国向けニュースを担当するようになりました。
やがて、平川さんの第二の故郷ともいうべき、アメリカと日本が戦争に突入します。
戦時中も海外向けニュースを担当した平川さんは、米州部放送班長としてアメリカ兵に対する厭戦工作に携わっています。
【カムカムエブリバディ】モデル・平川唯一さん|終戦
カムカムエブリバディのヒントとなった平川唯一さんが43歳だった1945年(昭和20年)8月のこと。
日本の負けで戦争が終わりました。
平川さんは、昭和天皇の『玉音放送』を英訳し、諸外国向けに朗読放送を行っています。
また、連合軍総司令部(GHQ)の最高司令官・ダグラス・マッカーサーの放送要員も務めるなど、終戦直後も忙しい日々に追われていました。
そして、終戦から1カ月後の9月に転機が訪れます。
NHKの外国放送の廃止が決定となり、平川さんは8年間勤務したNHKを退職することになったのでした。
【カムカムエヴリバディ】モデル・平川唯一さん|退職後にNHKからオファー
NHKを退職した平川唯一さん。
退職からしばらくして、なんと、『NHK教養部』から英会話放送の仕事が舞い込みました。
そのオファーを受けた平川さんでしたが、英会話教育に関しては素人だったことに気付きます。
今さら断るわけにもいかない平川さんは、自分自身が経験した英会話習得までの期間を徹底的に振り返ることにしました。
その時の思いとして、大人になってからでも英会話習得が出来た理由を客観視したかったのだそうです。
すると、英会話は勉強ではなく『言葉遊び』だったという事実に気付きます。
やがて平川さんは、新たな勉強法を編み出し、番組立ち上げの準備に追われるのでした。
【カムカムエブリボディ】モデル・平川唯一さん|カムカムおじさん大人気
終戦翌年の1946年(昭和21年)2月。
平川さんが講師を務める英語会話講座のラジオ放送がNHKでスタートしました。
戦後の日本を明るくしたいという思いがあった平川さんは、元気でユーモアあふれる番組を心がけていました。
戦時中は目の敵にされた英語をいかに楽しんでもらおうか考えた平川さんは、平均的な日本人家族の日常会話を題材にします。
平川さんは自分時自身の体験から考え出した教え方は、日本人家族の日常会話を切り取った『赤ちゃん口まね方式』でした。
そんな平川さんの口ぐせは、「英文を楽しく口まねすれば誰でも英語が話せるようになるんですよ」でした。
アメリカで演劇人だった平川さんは、寸劇仕立ての番組を作り、『英語遊び』として教え始めました。
それは、当時の日本人の心情を伝える『家族の情景』になっていて、聴くも者の心に届き、放送のたびに番組は評判を呼んでいきます。
そして、番組人気に拍車をかけたものがテーマ曲です。
童謡『証城寺の狸囃子』(しょうじょうじのたぬきばやし)を替え歌にした『カム・カム・エヴリバディ』は、子どもたちの間で歌えるこ
とが常識となるほど人気となりました。
やがて、英会話講座は『カムカム英会話』と呼ばれ、平川さんは「カムカムおじさん」の愛称がつき、番組は大ヒットします。
その人気は絶大で、全国でファンクラブが結成されたのだとか。
平川さんに届いたファンレターは、なんと50万通に及んだそうで、日本中に英語ブームに包んだ火付け役となりました。
【カムカムエブリバディ】モデル・平川唯一さん|ブームの終焉
放送開始以来、長く続いた戦後の英会話ブーム。
やがてブームは落ち着きました。
そして昭和26年2月、『NHK英会話講座』は5年間続いた放送に幕を下ろしました。
同年12月から、『ラジオ東京』で英会話講座を再開したものの聴取率は伸びません。
その後放送局は『ニッポン放送』に移りますが人気は出ることなく、1955年(昭和30年)に番組は終焉を迎えましたのでした。
その時、平川さんは53歳でした。
カムカムエブリボディのモデル平川唯一さんの実話|情熱は衰えない
ラジオ英会話講座を終えた平川唯一さんは、ある会社に迎えられました。
そこは、世界各国のテレビ映画などの日本語版の制作や配給を手掛けていた『太平洋テレビ』です。
英語が堪能でアメリカで演劇人だった平川さんは、才能をいかんなく発揮します。
同社で平川さんは、翻訳部長を経て、副社長を務めています。
その後、長年の英語教育の功績を認められた平川さんは、74歳の時に『勲五等双光旭日章』を受章しています。
年齢を重ねた後も英会話教育への情熱が衰えない平川さんは、『みんなのカムカム英語』など複数の教材を出版するなど、年齢の衰えを感じさせませんでした。
そして、1993年(平成5年)8月、平川さんの91年に及ぶ人生は幕を下りました。
戦後の日本復興に多大な貢献を果たし平川さんへ、多くの方々から哀悼の意が寄せられました。
カムカムエヴリボディのモデル平川唯一さんの実話|さだまさしさんが演じるカムカムおじさん|まとめ
NHK朝ドラ【カムカムエヴリバディ】のモデル・平川唯一さんの実話をご紹介させていただきました。
ひょんなことからアメリカに渡り、まじめに学び、日本で才能の花を咲かせた平川さん。
その劇的な人生に驚かされます。
なお、【カムカムエブリバディ】は、平川さんの人生がメインテーマのドラマではありません。
さだまさしさんが演じる平川唯一役のエピソードとして、大胆に再構成したフィクションとして展開されると発表されています。
カムカムエブリボディがどんな物語になるのか楽しみです~♬