母・小橋君子(こはし きみこ)とは
小橋竹蔵の妻で、小橋家の三姉妹(常子、鞠子、美子)の母。実家は東京・深川で材木商「青柳商店」を営んでいますが、母親・青柳滝子とは、自身の結婚の際に親子の縁を切った過去があります。その後、竹蔵と結婚し、静岡に住むようになります。
母・君子は、のんびり屋でマイペースな性格の持ち主です。
外で働いた経験がほとんど無かった為、夫が他界した後は必死に頑張るのですが、生活が困窮してしまいます。
そのため、絶縁状態だった母・滝子を頼る事になります。
亡き夫同様、「当たり前の暮らしを大事にする生き方」を、常に娘達に教えていきます。
母・君子のモデル・大橋久子さんとは
大橋鎮子さんの母・大橋久子(旧姓・宮原久子)さんは、京都で宮原満吉氏の娘として生を受けたそうです。
父・満吉さんは、九州の小倉城の出身で、宮原家は小倉藩士の家系なのではないかとされています。明治時代の頃に満吉が京都に出て、そこで久子さんが生まれます。
その後、満吉さんは新潟に行き、そこで油田を掘り当て大金を手にします。その後、北海道に渡り小樽に住むようになったとされています。宮原家は、北海道で牧場を経営し、書生を何人も抱えるような経済的に恵まれた家だったようです。
久子さんは、地元の小樽高等女学校を卒業し、その後、東京の女子美術学校へ進みます。学校が休みの時に実家の小樽に帰省し、そこで北海道帝国大学に通っていた学生の大橋武雄さん(後に夫となる)と出会ったのだとか、何だかドラマのような出会いですね。
1919年(大正8年)、武雄が大学卒業後に東京に戻り、就職します。その翌月に二人は結婚し、翌年に二人の間に長女・鎮子が生まれます。
その後、大橋一家は夫の転勤で北海道に引っ越します。そして、北海道で次女・晴子と三女・芳子をもうけ、久子さんは幸せに暮らしていたようです。
しかし、この頃、夫・武雄さんが肺結核を患ってしまいます。1926年、療養の為、夫は退職し、一家は東京へ戻る事になります。久子さんは、優れた病院と、娘達の為に良い学校がある地域に住みたいと考え、東京の大井町に住む事に決めたと言われています。
その後、1930年、夫が他界。夫が残した、「鎮子が家を守るように。」という遺言を受けてか、夫の葬儀の喪主を、まだ小学生だった鎮子さんに務めさせたそうです。
夫の亡き後は、自分の着物などを売ったり、北海道の実家の父の助けを受けたりしながら、三人の娘達を育て、なんとか生活していったそうです。
その後、鎮子さんが会社を設立し雑誌を作るようになると、久子さんは裏方として娘を支えたそうです。実は、雑誌「暮しの手帖」に掲載された料理のレシピの中には、久子さんが作っていたものがいくつもあるのだそうです。
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