NHKの朝ドラ『虎に翼』ヒロイン・猪爪寅子(いのつめ ともこ)のモデルとして脚光を浴びる三淵嘉子(みぶち よしこ)さん。
嘉子さんは日本で初めて女性として法曹界を駆け抜けた一人として知られています。
現在では「三淵嘉子」の名前で知られている嘉子さんですが、結婚・再婚の関係で「武藤(むとう)嘉子」と「和田(わだ)嘉子」、そして「三淵(みぶち)嘉子」の3つの名を持つ女性でした。
そんな嘉子さんにまつわる3つの姓とともに、彼女のファミリーヒストリーについて家系図を用いてひも解いていきましょう。
【虎に翼】モデル家系図|武藤嘉子の実家・武藤家の歴史
まずは、嘉子さんの生家、「武藤家」についてみていきましょう。
1914年11月13日、シンガポールで「武藤嘉子」(むとう よしこ)として誕生しました。
両親は武藤貞雄(むとう さだお)さんとノブさんです。
夫妻はともに、讃岐うどんで有名な香川県の丸亀市の出身です。
この二人の結婚物語は、おとぎばなしのシンデレラに少し似ています。
この「武藤」という名字と嘉子さんが結びついた背景は、ちょっと複雑です。
嘉子さんの母・ノブさんの義母は厳しかった
1892年、嘉子の母・ノブさんは6人姉妹の末っ子として生まれました。
残念なことに、ノブさんが幼い頃に父親・宇野伝三郎(うの でんざぶろう)さんが亡くなってしまいます。
ノブさんの実家は一家の大黒柱を失ったことで、悲しみに暮れると同時に困窮してしまいました。
そんな時、ノブさんの伯父(おじ)にあたる武藤直言(むとう なおこと)・駒子(こまこ)夫妻が、ノブさんを養女に迎えたいと願い出ました。
直言さんは金貸しや借家貸しなどを営んでいて、地元の香川県丸亀市では名の知れた、いわゆるお金持ちの家でした。
立派なお屋敷に住んでいた名家だったのですが、夫妻は子供に恵まれず、跡取りがいませんでした。
そこで、血のつながった姪(めい)のノブさんを養女に迎えて、ゆくゆくは婿養子を取って跡取りにしようと考えたのでした。
夫妻の希望通り、ノブさんは武藤家に養女として迎えられました。
しかし、武藤家での生活はノブさんにとって厳しいものでした。
とにかく義母の駒子さんの性格がきつかったのです。
立派なお屋敷に住んでいるにもかかわらず、贅沢はしない倹約家でした。
紙一枚すら無駄にするのを許さないほど、厳しかったといいます。
使用人を雇う余力は十分にあったはずですが、夫妻はノブさんをまるで召使のように朝早くから働かせていました。
ノブさんに自由な時間はほとんどありませんでしたが、なんとか地元の女学校である『丸亀高等女学校』は卒業させてもらえました。
幼くして父親を失い、生まれ育った家を離れて伯父の家へと養女に出されたノブさん。
親の愛情を感じる機会もなければ、青春を謳歌することもできないまま、厳しい義母の下で家の雑事をこなす日々。
そんなノブさん置かれた環境は、まるでシンデレラ物語のイントロのようですね。
ノブさんの救世主はエリートの貞雄さん
そんなノブさんにも救世主が現れました。
それが、嘉子さんの父親となる宮武貞雄(みやたけ さだお)さんだったのです。
1886年、香川県丸亀市で貞雄さんは産まれました。
貞雄さんは当時、「宮武(みやたけ)」という姓でした。
宮武家は代々、丸亀藩の御側医を務めていた家系です。
『讃岐医師名鑑』にも弘化年の『丸亀藩御側医師』として、宮武図南(みやたけ となん)という人物が記録されています。
この方が、貞雄さんのご先祖と言われています。
医者の家系に生まれた貞雄さんは、当然のことのように周囲からは医者になることを期待されていました。
しかし、結果的には貞雄さんは医者にはなりませんでした。
地元の『丸亀中学校』を卒業後には上京し、『第一高等学校』に通い、その後『東京帝国大学法学部』を卒業して『台湾銀行』に就職しました。
貞雄さんは、まさに絵にかいたようなエリートでした。
そんな貞雄さんとノブさんが結婚したのは、1913年(大正2年)の事でした。
貞雄さんのお父さんの宮武良策(みやたけ りょうさく)さんは、武藤直言さんのいとこだったようで、おそらくそれが縁だったのでしょう。
貞雄さんは婿養子という形で武藤家の家族となりました。
武藤夫妻の「貞雄さんを跡取りにしたい」という思惑はさておき、結婚後に貞雄さんはシンガボール支店に赴任します。
もちろん、ノブさんも一緒でした。
つらい思いばかりしていた丸亀の家から、遠い南国へと連れ出してくれた貞雄さんは、ノブさんにとってはまさに救世主でした。
嘉子さんの進路を巡って両親が対立
夫婦仲が良好だった夫妻ですが、娘・嘉子さんの進路を巡っては意見が対立したこともありました。
嘉子さんが法律家の道を進むことを推奨していた貞雄さんとは異なり、母・ノブさんは嘉子さんが結婚して家庭に入ることを望んでいたのです。
しかし、嘉子さんの決意が固いと知ると一転、ノブさんは全力で嘉子さんを応援するようになったといいます。
それからは、両親揃って嘉子さんの一番の応援者として、先進の道を歩む娘を全力でバックアップしていました。
しかし、別れは突然訪れます。
1947年(昭和22年)1月、ノブさんが脳溢血(のういっけつ)により急死しています。
そんな彼女の後を追うように、同年10月に貞雄さんも肝硬変でこの世を去りました。
現在は二人とも、丸亀にあるお墓で仲良くともに永眠しています。
【虎に翼】モデル家系図|武藤嘉子と4人の弟たち
貞雄さんとノブさんという仲良し夫婦な武藤家には長女の嘉子さんと下に4人の弟がいました。
ここでは4人の弟について紹介します。
嘉子さんの弟|しっかり者の長男は戦死
武藤夫妻が後継者として気にかけていたのが、しっかりものの長男・一郎(いちろう)さんです。
1916年9月に一郎さんは生まれました。
嘉子さんの2歳年下ということで、年齢が近く姉弟仲は良好でした。
一郎さんは、『暁星中学校』を卒業後、『横浜商業学校(現在の横浜国立大学経済学部・経営学部)』を卒業し、『日立製作所』の水戸工場に就職しました。
しかし、不幸にも一郎さんの人生は長くありませんでした。
1944年6月、27歳の一郎さんの短い生涯は終わりを告げます。
武藤家で一番早くに戦争に召集されていた一郎さんは、その日、沖縄に向かうために輸送船『富山丸』に乗船していました。
しかし、鹿児島県付近にて米軍の魚雷による攻撃に遭い船は撃沈。
終戦の1年前の事で、一郎さんはそのまま帰らぬ人となりました。
戦地に赴く前にすでに結婚していた一郎さん。
出征時に妻・嘉根(よしね)さんのお腹には新たな命が宿っていて、一郎さんが出征中に女の子が生まれています。
しかし、その誕生を一番に喜んだはずの一郎さんが、娘と対面を果たすことはかないませんでした。
さらに武藤家にとって悲劇だったのは、一郎さんのご遺体がなかったことです。
一郎さんの体は船とともに海の底へと沈んでしまい、お葬式を挙げようにも遺骨がありませんでした。
仕方なく、お葬式は一郎さんの遺品を骨壺(こつつぼ)に入れて行われたそうです。
長男の早すぎる死は、武藤家に大きな衝撃を与えました。
特に、両親は早すぎる我が子との別れに憔悴しきっていたといいます。
嘉子さんの弟|最も近い存在だった次男
一郎さんの下には、次男・輝彦(てるひこ)さんがいました。
1921年4月18日生まれの輝彦さんは、『東京帝国大学文学部美学科』を卒業しています。
貞雄さんや嘉子さんの賢さを考えると意外ではありませんが、負けず劣らずの秀才ぶりですね。
そんな輝かしい功績にも、戦争が影を落とします。
輝彦さんは大学を繰り上げ卒業して、陸軍に従軍することとなります。
しかし、輝彦さんは幸いにも、無事に戦渦を生き延びることができました。
現在では、輝彦さんは花火師として広く知られています。
終戦後、輝彦さんは新聞記者や政党の秘書など職を転々としたのち、煙火製造業に入りました。
その後、輝彦さんは『日本煙火芸術協会』の設立に尽力し、1961年にはその苦労が実を結び、同協会の事務局長に就任します。
翌年には『社団法人日本煙火協会』が設立され、専務理事に就任します。
その後は同協会の副会長も務めています。
1988年にはアメリカ合衆国にわたり、グランド・キャニオンで日本式の打ち上げ花火を披露しました。
これ以降、輝彦さんは主に打ち上げ花火についての著書を複数残しています。
また、輝彦さんは姉・嘉子さんとも近い関係にありました。
輝彦さんは、温子(はるこ)さんという女性と結婚していて、嘉子さんの息子・芳武さんが小学生だったころ、嘉子さん親子と同居していました。
仕事で忙しい嘉子さんに代わり、温子さんはよく芳武さんの面倒を見ていたといいます。
嘉子さんの晩年に付き添っていたのも温子さんでした。
入院中のベッドで、温子さんが嘉子さんに添い寝していたという記録も残っています。
一方、輝彦さん自身も晩年は嘉子さんに関するインタビューなどに応じており、嘉子さんにまつわる貴重なエピソードを語っていて、後世にその功績を語り継いでくれています。
そして2002年の10月に輝彦さんは81歳で永眠しました。
嘉子さんの弟|三男は医師で仏像にも精通
輝彦さんの下には、三弟・晟造(せいぞう)さんという弟さんがいます。
晟造さんについては非常に情報が少ないのですが、1923年ごろに生まれ、『北海道大学医学部』を卒業し、その後も『日産診療所』で長く医師として活躍したとされています。
『日産厚生会診療所』の歴代所長の一覧には、確かに晟造さんの名前があり、1971年から1984年の13年間にわたって所長を務めていました。
また、晟造さんの名前で出版されている仏像関連の本も複数存在しています。
末の弟さんが「嘉子さんの弟は長男を除いてみな80歳以上まで生きた」と話しているため、晟造さんも80歳を超えての人生とおもわれます。
嘉子さんの弟|岡山の進学校に進んだ四男
そして、嘉子さんの末の弟・泰夫(やすお)さんです。
1928年に生まれた泰夫さんは、嘉子さんとは一回り以上も歳が離れています。
幼いうちにご両親を亡くしたため、泰夫さんにとって嘉子さんは姉であり、母であり、父でもあるという特別な存在だったと語っています。
泰夫さんは、姉兄弟の中でも最も長くご存命だったため、嘉子さんに関する多くの取材に答えていて、彼女の生涯を後世に残してくれた人物の一人でもあります。
泰夫さんは戦争の頃には、岡山市にある『第六高等学校』に通っていました。
この頃、嘉子さんは福島に疎開していたため、泰夫さんは父・貞雄さんに命じられて疎開先まで姉の様子を見に行ったこともあったといいます。
その際、嘉子さんの疎開先の環境があまりにもひどかったため、泰夫さんは絶句してしまい、嘉子さんにかける言葉もなかったといいます。
戦後、泰夫さんは『林野庁』に長年勤務し、その後は民間企業で働いたといいます。
退職後には90歳近くまで森林の保護活動を続けつつ、嘉子さんにまつわる取材の対応もこなしていました。
晩年まで精力的にさまざまな活動をされていましたが、残念ながら2021年に92歳でお亡くなりになったそうです。
【虎に翼】モデル家系図|和田嘉子の家族について
ここからは、嘉子さんの第二の姓である「和田(わだ)」に着目します。
嘉子さんが和田姓を名乗るようになったのは、もちろん最愛の夫であった和田芳夫(わだよしお)さんとの結婚でした。
最初の夫・和田芳夫さんは温和な人
嘉子さんと芳夫さんの出会いのきっかけは、芳夫さんが書生として嘉子さんの実家に身を寄せていたことでした。
当時、武藤家には常に3人ほどの書生たちを地元の丸亀から招いており、芳夫さんはそのうちの一人でした。
芳夫さんは『明治大学夜間部』に通いながら、『東洋モスリン株式会社』という紡織会社で働いていたといいます。
大学卒業後も『東洋モスリン』で働き続けたようですが、肺を悪くして一年ほど療養していたこともありました。
活発な嘉子さんとは正反対に、芳夫さんはおとなしくて優しい性格だったのだとか。
実はそんな彼に、嘉子さんは長年ひそかに思いを寄せていました。
家族のだれも気づいておらず、予想すらしていなかったそうです。
嘉子さんの結婚相手を探そうということになると、なんと嘉子さんが芳夫さんへの恋心を明かします。
そこで父・貞雄さんが間を取り持って二人は交際、そして1941年11月に結婚しました。
また、1943年には、二人の間に第一子・芳武(よしたけ)さんが誕生します。
けれども、幸せな日々はそう長くは続きませんでした。
1945年1月終戦の年、夫・芳夫さんは戦地へと出征することになります。
芳夫さんは過去に肺を悪くしていたため、それまで召集令状が届いてもすぐに召集が解除されていました。
しかし、今回ばかりは違いました。
日本の戦況は日々悪くなっており、芳夫さんも出征を余儀なくされたのでした。
そして、残念なことに芳夫さんは、生きて嘉子さんと芳武さんと再会することはなかったのでした。
出征後すぐに病に倒れた芳夫さんは、終戦の翌年1946年に帰国。
その直後に長崎の陸軍病院で病状が悪化してしまい、そのまま息を引き取りました。
この報せを聞いた嘉子さんは大きなショックを受け、泣き続けていたといいます。
けれども、嘉子さんはまだ幼い芳武さんや弟たちを育てていかなければなりません。
苦しい中でも、彼女は法曹界で懸命に生きる道を選びました。
息子・芳武さんは和田姓を名乗り続ける
お母さんが法曹界を駆け抜けている頃、息子・芳武さんは寂しい思いをしつつも、自由闊達な子供として成長しました。
芳武さんが『麻布中学校』の二年生だったころ、嘉子さんは再婚します。
嘉子さんの姓は和田から三淵に変わりましたが、息子・芳武さんの姓は和田のままで、三淵姓に変えることはなかったといいます。
けれども、芳武さんは決して母親の再婚に反対していたわけではなく、むしろ母を支える結婚相手ができたことを喜んでいました。
芳武さんは、成人してからは『寄生虫研究者』として活躍しています。
『東京大学伝染病研究所寄生虫研究部』に所属して、1966年ごろから芳武さんの名前で発表された生物学論文が複数確認できます。
グッピーやダニ、蚊、タテツツガムシなどといった生物について研究をなさっていたようです。
1974年以降は『東京女子医科大学』にて研究を続けていました。
嘉子さんの晩年も、息子・芳武さんとの交流は続いています。
嘉子さんが体調を崩した際にも、芳武さんが医師から説明を受け、『がん』であることを母に告げたそうです。
1984年、嘉子さんが危篤となると芳武さんは慌てて病院に駆けつけ、なんとか彼女の最期に立ち会い、看取ることができました。
嘉子さんが息を引き取った直後、芳武さんは母親の髪をなでながら『戦友』という歌を口ずさみました。
それは芳武さんがまだ幼かったころの戦時中、疎開先で嘉子さんが何度も口にしていた歌だったといいます。
その後、芳武さんは叔父たちと同様に嘉子さん関連の取材を多く引き受け、貴重な資料を開示し、彼女の生涯を後世に語り継ぐことにも貢献しました。
そして2020年ごろに息を引き取りました。
【虎に翼】モデル家系図|三淵嘉子の家族について
最後に、嘉子さんの代さんの姓である「三淵(みぶち)」についてみていきましょう。
少々珍しい「三淵」という姓を嘉子さんが名乗るようになったのは、三淵乾太郎(みぶち けんたろう)さんと再婚したことに由来します。
乾太郎さんは、1906年12月3日に福島県会津若松市新横町に生まれました。
乾太郎さんの父親は日本の『初代最高裁判所長官』の三淵忠彦(みぶち ただひこ)さんです。
母親はトキさんといい、長男・乾太郎さんを出産後、さらに二人の男児と一人の女児をもうけています。
トキさんについてはほとんど記録がないものの、忠彦さんとは死別だったことが分かっています。
1922年に忠彦さんは白鳥静(しらとり しずか)さんと再婚しているので、それまでの間に亡くなってしまったということでしょう。
忠彦さんは再婚後に静さんとの間にも男児が産まれています。
そのため、乾太郎さんは5人兄弟・兄妹の長男として育ちました。
乾太郎さんの弟と妹たち
乾太郎さんの2歳下の弟・萱野章次郎(かやの しょうじろう)さんは祖父の代で滅せられていた萱野姓を再興し、『千代田生命保険』の社長も務めました。
残念ながら1979年に亡くなっていますが、一周忌の様子が嘉子さんの日記に記録されています。
また、乾太郎さんの5歳下の弟・震三郎(しんざぶろう)さんは『早稲田大学法科』を卒業。
『大東京火災海上保険』(現在のあいおいニッセイ同和損害保険)の創設者であり、『早稲田大学』の理事を務めた反町茂作(そりまち しげさく)さんの娘さんと結婚しています。
震三郎さん自身も『大東京火災海上保険』の常務を務めています。
乾太郎さんの8歳年下の妹・多摩(たま)さんは三淵家と親交のあった石渡慎五郎(いしわたり しんごろう)さんと結婚しています。
慎五郎さんは『日本開発銀行監事』でした。
異母弟であった末の弟・粲四郎(さんしろう)さんは乾太郎さんと17歳離れていました。
残念ながら、彼は戦時下に病気で亡くなったそうです。
父と同じ道を目指した乾太郎さん
三淵嘉子さんと結婚した三淵家の長男の乾太郎さんは、初代最高裁判所長官を務めた父・忠彦さんと同じく法律の道を志しました。
『東京帝国大学法学部』在学中の1930年、『高等文官試験司法科』に合格しています。
翌年1931年には大学を卒業して『司法官試補』として『司法省』に入省。
さらにその翌年1932年には『東京地方裁判所予審判事』となっており、順調にキャリアを積み上げています。
そして1935年、乾太郎さん(28才)は『東京民事地方裁判所判事』に就任しました。
乾太郎さんの最初の妻と4人の子供
この頃に乾太郎さんは最初の妻・井沼祥子(いぬま しょうこ)さんと結婚しており、娘が2人産まれていました。
娘さんたちの名前はそれぞれ長女・那珂(なか)さんと次女・奈都(なつ)さんでした。
1942年に『司法事務官』になると、その2年後には領事として北京に滞在します。
この頃にはさらに三女・麻都(まつ)さん、長男・力(ちから)さんが生まれ、乾太郎さんと祥子さんの間には4人のお子さんがいらっしゃいました。
しかし、乾太郎さんが北京へ赴任する頃には、残念ながら祥子さんは結核を患っていました。
それから亡くなる1955年まで十数年間、祥子さんは寝たきりのような生活だったそうです。
乾太郎さんと嘉子さんとの出会い
終戦後、無事に帰国した乾太郎さんは、『高等裁判所裁判官』および『最高裁判所調査官』に着任します。
そんな折、乾太郎さんが一躍話題となったのは、1949年に担当した『小田原一家5人殺害事件』でした。
未成年ながら残忍な犯行に及んだ被疑者に対し、裁判官としては死刑を宣告します。
しかし、個人としてはその少年に『控訴をすすめた』ことが報じられ、当時大きな話題となりました。
乾太郎さんへのインタビューは、新聞にも大きく掲載されました。
その後、乾太郎さんは人づてに紹介されて、嘉子さんと出会います。
2人が出会った頃、嘉子さんは『名古屋地方裁判所』に勤務しており遠距離恋愛でした。
よく楽しそうに電話で話していたそうです。
乾太郎さんが名古屋に赴き、嘉子さんと息子・芳武さんとで動物園に遊びに行ったこともあったそうです。
乾太郎さんの妻・祥子さんが息を引き取った翌年、1956年に嘉子さんの勤務先が『東京地方裁判所』に変わります。
これをきっかけに、二人の交際はより公のものとなり、その年の8月、二人は結婚しました。
実母が亡くなってから、わずか1年ほどで新たな義母が誕生したにもかかわらず、乾太郎さんの4人の子供たちは特に大きな反発などはしなかったようです。
別居婚も!嘉子さんと乾太郎さん夫婦の日々
夫婦そろって裁判所の所長ということもあってか、乾太郎さんと嘉子さんは別居婚の時期もありました。
けれども、大きな不和はなく、いたって良好な夫婦関係を続けていたといいます。
乾太郎さんは『甲府地方裁判所所長』、『浦和地方裁判所所長』などを務めます。
その職を退いた後は弁護士としての活動を行うなど、法曹界の人間として歩み続けました。
乾太郎さんは、大病を患いつつも嘉子さんの献身的な看病もあって、回復して穏やかな日々を過ごしていましたが、1985年(昭和60年)に嘉子さんの後を追うようにこの世を去りました。
周囲の人によれば、乾太郎さんが嘉子さんに首ったけだった、という印象を抱いている人が多くいました。
もしかしたら、一度、夫を亡くすというつらい経験をしていた嘉子さんに、「二度も同じ思いをさせたくはない」という気持ちで、嘉子さんを見送ってからご自身も永い眠りについたのかもしれませんね。
乾太郎さんの長女・那珂さん
晩年の乾太郎さん・嘉子さん夫婦を支えたのは子供たちでした。
長女の那珂(なか)さんは、乾太郎さんの再婚時には22歳で、既に結婚して嫁いでいました。
那珂さんの夫は裁判官の八木下巽(やぎした たつみ)さんで、退官後も弁護士として活動していました。
既に三淵家を出ていた那珂さんでしたが、妹弟たちが心配だったのか実家をいつも気にかけており、嘉子さんとはたびたび衝突もしていたといいます。
那珂さんによれば、気が強かった嘉子さんとは反対に、父・乾太郎さんはいさかいが苦手だったのだとか。
意見が対立してもすぐに引き下がってしまい、そのようなお父さんの姿に歯がゆい思いを抱いていたそうです。
けれども、嘉子さんとは料理のレシピを貸し合う仲で、決して険悪な状況ではなかったようです。
ちなみに那珂さんは、嘉子さんに関する取材もいくつか受けています。
乾太郎さんの次女・那珂さん
乾太郎さんの次女・奈都(なつ)さんは、嘉子さんが家にやって来た時には21歳でした。
当時はまだ三淵家に暮らしていましたが、その後は判事だった盛岡茂(もりおか しげる)さんと結婚しています。
奈都さんに関してはあまり情報がありませんが、嘉子さんが危篤となった際に夫婦で病院に駆けつけたようです。
嘉子さんの最期の様子については、奈都さんの夫・茂さんが書き残した文章が詳しく状況を伝えています。
病院のベッドの上で嘉子さんがあまりにも苦しんでいたため、「見ていられない」と席を外してしまうほどに心を痛めていたようです。
嘉子さんに人工呼吸を施していた医師から、「処置を止めてもよいか」とたずねられた際に、実子の「芳武さんが来るまで続けてください」と頼んだのが茂さんでした。
彼のこの言葉のおかげで、嘉子さんの唯一の実子・芳武さんは、母の最期をみとることができたといいます。
乾太郎さんの三女・麻都さん
嘉子さんの晩年、献身的に介護をしていたのは、乾太郎さんの三女・麻都(まつ)さんです。
嘉子さんが三淵家にやって来た時の麻都さんは18歳で、嘉子さんが病に倒れたとき麻都さんもすでに結婚していました。
病気の影響で食欲がない嘉子さんのために献身的に尽くしたそうです。
しかしラーメンを作ってあげれば、「これじゃあ素ラーメンだ」と文句を言われ、「御膳そばが食べたい」という嘉子さんの声に麻布十番までそばを買いに行っても「これはニセモノじゃない?」などと言われる始末。
麻都さんは、嘉子さんのわがままに振り回されたそうですが、それすらも「かわいいわがままだ」と感じていたそうです。
そんな嘉子さんと三女・麻都さんが旅行に行くほどに良好な関係を築いたのが、乾太郎さんの長男の力(ちから)さんのおかげでした。
乾太郎さんの長男・力さん
嘉子さんが三淵家にやって来たとき、長男で末っ子の力(ちから)さんまだ14歳だった力さん。
実母の祥子さんを慕っていたこともあり、お父さんの再婚当時は複雑な心境を抱いていたようでした。
しかし嘉子さんとの関係は良好だっそたそうです。
力さんも嘉子さんの我の強さには驚いたようですが、姉の麻都さん同様、そんなところも「かわいげがある」と語っています。
嘉子さんが退官した二カ月後、力さんは妻も伴って嘉子さんと金沢旅行に出掛けました。
その時の様子を、嘉子さんは楽しそうに日記につづっています。
懐石料理や加賀の料理に舌鼓をうった力さんたちは、穏やかな旅を満喫したようでした。
【虎に翼】モデル家系図|武藤・和田・三淵3つの姓と嘉子の家族たちの史実|まとめ
法曹界の女性のフロントランナーとして時代を切り開いた三淵嘉子さん。
ここまで嘉子さんの持つ3つの姓「武藤」、「和田」、そして「三淵」に焦点を当てて、彼女を取り巻くファミリーヒストリーについてお届けしてきました。
激動の時代を駆け抜けた嘉子さんでしたが、彼女を支えたのがどのような人たちだったのかが少しわかってきたのではないでしょうか。
このような嘉子さんを取り巻く人々が、ドラマ『虎に翼』ではいったいどのように登場して、どのような物語を繰り広げてくれるのでしょうか、とても楽しみですね。