NHK朝ドラ『虎に翼』では、主人公・猪爪寅子(いのつめ ともこ)の魅力に引き寄せられる中、クラスメートの一人、山田よねにも熱い視線が注がれています。
土居志央梨(どい しおり)さん演じるよねは、男装の女学生として描かれ、その独立心と進取の精神が話題です。
ここでは、よねのモデルは久米愛(くめあい)さんではないかと多くの憶測が流れていますが、その真偽について探ってみたいと思います。
【虎に翼】よねのモデル|久米愛さんとはどんな人?
人気を博しているNHK朝ドラ第110作の『虎に翼』。
伊藤沙莉(いとう さいり)さん演じるヒロイン・猪爪寅子(いのつめ ともこ)がお茶の間のハートをつかむ中、寅子のクラスメートたちにも熱い視線が注がれています。
寅子のクラスメートはみな個性豊かなのですが、中でも注目を集めているのは、土居志央梨(どい しおり)さん演じる男装の女学生・山田よねです。
よねはいつも男装していて、群れることを嫌い、人一倍やる気にあふれており、女性の社会進出に向けて熱い闘志を燃やす女性です。
和やかな空気を作ろうとする寅子に対して厳しい言葉を投げかけるなど、そりが合わない部分もありつつ、居心地悪そうにしながらも仲間として付き合っています。
そんなよねのモデルとなった史実上の人物はいるのでしょうか?
ちまたでよく取りざたされているのは、久米愛(くめ あい)さんという人物ですね。
久米さんは、寅子のモデルである三淵さんとともに、日本で初めて司法試験に合格した女性の一人です。
いつもスラックスを履いていて、つかつかと廊下を歩いていたといわれており、このパンツスーツのイメージが男装と重なるということから、「よねのモデルではないか?」といわれるようになりました。
【虎に翼】よねのモデル|久米愛さんのヒントにしたオリジナルキャラ?!
【虎に翼】ヒロイン寅子のモデル三淵嘉子さんと一緒に日本の女性初の弁護士になった久米愛さん。
しかし、よねのモデルだとは断定できませんでした。
理由は、よねのキャラクターや経歴と愛さんの人物像、および、経歴に大きな隔たりがあるんですよね。
史実では、久米愛さん、三淵嘉子さん、中田正子さんの3人は、女性として日本初の司法試験合格者となります。
しかし、ドラマ上の山田よねは不合格となってしまいます。
ヒロイン・寅子は1938年に先輩である中山・久保田と共に高等試験に合格し、その後日本初の弁護士になります。
一方、ドラマ上のよねは、寅子がすでに弁護士となっている1942年時点でも依然として高等試験合格を目指しているとされています。
現時点では、よねが高等試験に合格できるかどうかも不透明なため、愛さんとは経歴が大きく異なってしまいます。
また、愛さんは在学中に結婚していますが、よねには結婚の気配はありません。
そして、愛さんは裕福な家庭で育ち英語を得意としていますが、よねは貧しい家庭の育ちで、英語が得意というわけでもなさそうです。
さらに、愛さんは非常に人懐っこい性格で、夫の家族からも非常にかわいがられていたといいますが、よねはどう見ても正反対のキャラクターですよね。
このような理由から、現時点では『愛さん=よねのモデル』とは考えにくいでしょう。
三淵さんや久米さんが卒業した『明治大学専門部女子部法科』には非常にユニークで個性的な生徒が所属していたそうです。
ドラマでは、男装のよねを初めて見た寅子が「すてきね!」と、声をかけたのが二人の出会いでした。
モデルの三淵さんが女学生時代、宝塚歌劇団の男役スターだった雪野富士子さんの大ファンだったとの逸話もあります。
山田よねは、そのような史実やエピソードを基に、オリジナルで作られたキャラクターと考えるのが自然に思います。
【虎に翼】よねのモデル|久米愛さんは法曹界のトップランナー
NHK朝ドラ【虎に翼】山田よねのモデルではなかった久米愛さんですが、実際にどのような人物だったのでしょうか。
愛さんは、1911年(明治44年)7月に、藤原愛(ふじわらあい)として大阪で生まれました。
お父さんは、大阪の電力会社の社長だったそうです。
愛さんは、『津田英学塾』(現在の津田塾大学)で英語を学び、1933年3月の卒業後、同年4月、21才で『明治大学専門部女子部法科』に進学しました。
愛さんには9歳年上の兄・藤原守胤(ふじわら もりたね)さんがいました。
守胤さんがハーバード大学への留学を終え帰国してから、二人で暮らしていたこともあったといいます。
守胤さんは後に慶應義塾大学の名誉教授となり、アメリカ政治史を教えています。
1936年(25才)愛さんは、明治大学の1年生ころに久米知孝(くめ ともたか)さんと出会い、その後に結婚します。
知孝さんとの結婚直後の1938年11月、愛さんは27才で女性として初めて高等試験に合格しました。
ともに合格した三淵さん、中田正子さんが当時は独身だったため、唯一の既婚者として大々的にマスコミで報じられました。
その後、弁護士試補の期間を経て、正式な弁護士として登録されます。
これが、『女性初の弁護士』の誕生でした。
愛さんは弁護士としても、妻としても、母としても懸命に日々を過ごしていたといいます。
しかし、愛さんが弁護士になって間もなく、戦争が激化します。
夫の出征や度重なる住居の移転、愛する息子の死など、数々の悲劇を乗りこえながらも、愛さんは何とか終戦を迎えます。
1950年(39才)、終戦後の愛さんはGHQの招待で、婦人使節団の一人としてアメリカに渡り約4カ月間を現地で過ごしました。
そこでアドバイスを受け、帰国後に愛さんは『日本婦人法律家協会』(現・日本女性法律家協会)を発足させ会長を務めました。
その後は国際会議を開催したり、女性弁護士の活躍の場を広げるべく各所に働きかけるなど、精力的に活動しています。
【虎に翼】よねのモデル|久米愛さん女性初の最高裁判事候補に
NHK朝ドラ【虎に翼】山田よねののモデルではないかと囁かれた久米愛さんは、持ち前の英語での外交力が認められ、海外に行くことが多くありました。
国連の関係団体ともよく一緒に仕事をしていました。
外務省の人達にも頼られ、「もっと長く仕事をしてほしい」と、頼まれるほどに優秀だったといいます。
三淵さんが判事への道を志したのとは対照的に、久米さんは弁護士としての道を進み続けました。
弁護士になってからずっと同じ弁護士事務所に勤務し続け、事務所の代表弁護士が亡くなると、先輩方とその事務所を引き継いでいます。
高等試験合格から約40年を経た1976年2月、大病をわずらう中、愛さん(64才)は最高裁判所の判事候補となりました。
日本で女性が最高裁の判事候補となるのは、史上初の出来事でした。
このことは当時、マスコミでも大きく報じられたといいます。
女性の法学者として、久米さんは常に第一線を走り続けていました。
さらに、それにおごることなく、周囲の人からも非常に好かれていたといいます。
【虎に翼】よねのモデル|久米愛さんの光と影
NHK朝ドラ【虎に翼】山田よねのモデルではないかと推測された久米愛さん。
素晴らしいキャリアを光とするならば、影、それは「病」でした。
1970年(59才)に『脳血栓』で倒れ、不自由な体調の中で仕事に向かいます。
しかし、その後『すい臓がん』が見つかり、発見時にはすでに手遅れの状態でした。
最後の夜には何かをずっと話していたそうですが、1976年7月14日に息を引き取りました。
享年65歳でした。
前年には、『最高裁判所の判事候補』と大きなスポットライトを浴びつつも、病には勝てませんでした。
葬儀には、多くの人が駆け付けたそうです。
中には、久米さんの訃報を新聞で知り駆け付けた方も多くいたのだとか。
久米さんがいかに慕われていたのかが分かります。
【虎に翼】山田よねのモデルは久米愛さんなの?!実話から推測する|まとめ
日本初の女性弁護士の一人である久米愛(くめあい)さんの実話をご紹介させていただきました。
調べた結果、彷彿させるようなことはあってもはっきり【虎に翼】山田よねのモデルと断定することはできそうにありませんでした。
しかし、女性の地位向上のため女性法学者として常にフロントランナーであったというその熱意は、どこかよねをほうふつとさせる部分もあります。
今後のよねの物語次第では、久米さんをモデルとした展開があるかもしれません。
久米愛さんの残した軌跡を忘れないようにしながら、劇中のよねがこれからどのように描かれていくのか注目です。