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【虎に翼】寅子のモデル三淵嘉子(みぶちよしこ)さんは一途で奥手な才女だった!

【虎に翼】ヒロイン寅子のモデル・三淵嘉子さん

NHK朝ドラ【虎に翼】の多くの視聴者の心を掴んでいます。

特に主人公・猪爪寅子のモデルとされる三淵嘉子(みぶち よしこ)さんへの関心が高まっています。

三淵嘉子さんが生まれた時代背景、教育、そして女性の社会的立場に焦点を当て、どのように法曹界の壁を破り、後世の女性たちに道を開いたのか実話を探ります。

【虎に翼】 寅子のモデル|三淵嘉子さんは「えくぼ」がキュートな天才児

NHK朝ドラ『虎に翼』は、初回放送時から伊藤沙莉(いとう さいり)さん演じるヒロイン・猪爪寅子(いのつめ ともこ)のキュートさが大きな話題となっています。

虎に翼 7週31話ネタバレあらすじ 弁護士修習の寅子

そのヒロイン・寅子のモデルとなったのが、三淵嘉子(みぶち よしこ)さん(旧姓・武藤)という日本で初めて司法試験に合格した女性の一人です。

嘉子さん本人もまた、キュートな方だったと言われています。

嘉子さんについて語る時、多くの人が挙げる特徴が、両頬のえくぼがチャームポイントだったということです。

確かに、嘉子さんの顔写真を実際に見てみると、どの写真からもその特徴が見て取れます。

そんな嘉子さんは、幼少期から頭がよくさらに頭の回転が速いことでも有名でした。

1914年11月13日、嘉子は大手銀行員の父・武藤貞雄(むとう さだお)、母・ノブの5人姉弟の長女として生まれました。

貞雄はノブの実家(武藤家)に『入り婿』として迎えられていました。

寅子のモデル三淵嘉子さんの父・武藤貞雄

貞雄は東京帝国大学(現在の東京大学)法学部を卒業後に『台湾銀行』入社し、海外支店勤務の後東京支店配属となります。

貞雄が海外での単身赴任の間、家族は香川県・丸亀の武藤家(母・ノブの実家)で過ごします。

やがて、父・貞雄が東京勤務になったことを機に、嘉子さんの家族は東京・渋谷に居をもうけました。

1927年(嘉子12才)、青山師範学校付属小学校を卒業すると、東京女子高等師範学校付属高等女学校(お茶の水女子大学付属高等学校の前身)に入学しました。

入試の倍率は何と20倍を超えるという超難関学校でしたが、持ち前の賢さでなんなく合格したといいます。

後に法律家となる嘉子さんですが、意外にも理系タイプだったらしく、語学よりも数学の方が得意だったようです。

そんな嘉子さんは勝ち負けや、成績での優劣にはこだわらない人で、隣の席の人と通信簿を見せ合うこともあったようです。

また、時には仲の良い友人と口げんかをすることもあったといいます。

友人たちは「絶対に勝ち目がなかった」と語るほど嘉子さんは弁が立ったそうで、この頃から天職となる弁護士の片りんが伺えます。

そして、女学校卒業後の1932年4月、嘉子さん(17才)は『明治大学専門部女子部法科』に入学し、法律家を目指すスタートラインに立ちました。

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【虎に翼】 寅子のモデル|三淵嘉子さんが法律家の道を歩みだす

朝ドラ【虎に翼】のモデルとなった三淵嘉子さんが『明治大学専門部女子部法科』に入学したのは女子部設立の翌年でした。

入学者は50名ほどでしたが、さまざまな理由で退学せざるを得ない人たちが多く、卒業時には20名ほどになってしまったといいます。

1935年3月(嘉子20才)、同じ志を抱いて法律家への道の門戸をたたいたはずの仲間たちが離脱していくのを眺めつつも、嘉子さんは無事に女子部を卒業しました。

その後、嘉子さんは『明治大学法学部本科』へと進学します。

当時、大学は男子しか生徒として在籍しておらず、小学校卒業後は男女別学が一般的でした。

そんな環境で女子が大学に入学することは、男女双方にとって警戒心を抱かざるを得ない状況でした。

その影響もあってか、嘉子さんは女子部の頃から親しくしていた女生徒と行動をともにしていたといいます。

しかし、嘉子さんの頭の良さは男子生徒にも知れ渡っていて、一目を置かれるほどだったようです。

なかには、試験中に嘉子さんの答案をカンニングしようとした男子生徒たちもいたというから、驚きです。

1938年3月(嘉子23才)、それだけの才女だった嘉子さんは、学年トップの成績で大学を卒業しました。

卒業式では、卒業生総代として卒業証書を受け取ったといいます。

ここまでくると、さすがとしか言いようがありません。

大学卒業後、嘉子さんは『高等文官試験司法科』、現在でいうところの司法試験にのぞみます。

猛勉強の末に試験に挑戦した嘉子さんでしたが、筆記試験の一日目は自分が思うほどの出来ではなかったらしく、帰宅するなり「失敗した!」と玄関で泣き崩れてしまったそうです。

そんな彼女の落ち込む姿を心配したお母さんは、司法官試補となった元書生さんを呼び出し嘉子さんの回答を確認させたといいます。

結果としては、嘉子さんの心配は取り越し苦労でした。

元書生さんが嘉子さんの答案内容を聴いたところ、非常によくできていたようです。

司法科試験合格に太鼓判をもらった嘉子さんはようやく落ち着きを取り戻し、翌日以降の試験に心置きなく臨んで行きます。

筆記試験を合格した嘉子さんは、最終審査である口述試験に挑みます。

そして、1938年11月、嘉子さん(24才)は日本初の司法科試験・女性合格者の一人となったのでした。

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【虎に翼】 寅子のモデル|三淵嘉子さんの一途で奥手な恋愛事情

1938年11月、見事に司法科試験に合格した【虎に翼】のモデル・三淵嘉子さん。

【虎に翼】寅子のモデル・三淵嘉子さん

翌年には弁護士試補、つまり弁護士見習いとなりました。

見習い期間を終えると第二東京弁護士会に登録し、正式な弁護士になります。

弁護士としてのキャリアを獲得した一方で、嘉子さんは母校である明治大学で民法の講師も務め、後進の育成に尽力しはじめたのです。

司法科試験に合格した女性第一号である嘉子さんは、学生の中では伝説の人のように思われていました。

そんな彼女たちとも嘉子さんは非常にフランクに交流したそうで、学生たちも気負うことなく彼女との交流を楽しんだようです。

そんな折、嘉子さんの両親はそろそろ彼女を結婚させようと考えていました。

とはいえ、この頃(1940年頃)の嘉子さんは26歳で、当時の感覚では婚期を逃したと考えられる年齢でした。

さらに、女弁護士という経歴は、花嫁向きとは言えませんでした。

そのせいか嘉子さんの元には、なかなか良い縁談話が舞い込んできません。

そこで嘉子さんのお父さんは本人に「気になる人はいるか?」と質問します。

すると嘉子さんはしおらしく「和田さん・・・」と答えたのでした。

この和田さんというのは、以前、嘉子さんの家の住み込み書生の一人、和田芳夫(わだよしお)さんのことでした。

【虎に翼】優三のモデル・和田芳夫

芳夫さんは歴代の書生の中でも、特に温和で優しい人物で、嘉子さんとは正反対の性格の人物でした。

そんな和田さんに嘉子さんがひそかに思いを寄せていたとは、家族のだれも想像していなかったらしく、全員がビックリ仰天してしまいます。

珍しくもじもじとしている娘の様子を見たお父さんが、結果的には二人のキューピッドになります。

嘉子さんの思いをお父さんが芳夫さんに伝え二人は交際を始めました。

二人の交際はおだやかに進んでいったらしく、芳夫さんのスローペースさに嘉子さんはやきもきしてしまったほどでした。

嘉子さんは友達に「芳夫さんが、なかなか結婚しようと言ってくれない」と、ぼやいていたようです。

1941年11月(嘉子27才)、交際開始から1年ほどで二人はついに結婚。

嘉子さんの長い片思いがついに実った瞬間でした。

結婚から間もなく、嘉子さんは第一子を妊娠し、無事に長男・芳武(よしたけ)さんを出産しました。

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【虎に翼】 寅子のモデル|三淵嘉子さんの人生に影を落とした戦争

朝ドラ【虎に翼】のモデル・三淵嘉子さんの人生に大きな影を落としたのが戦争です。

長年の片思いが実って結婚した嘉子さんは、子供も生まれ順風満帆に思えた幸せな結婚生活を送り始めました。

しかし幸せな時間は長く続きませんでした。

1944年初頭(嘉子29才)、息子・芳武さんが一歳になった頃、夫・芳夫さんに召集令状が届きます。

この召集は、すぐに解除となりました。

芳夫さんは以前『結核』を患っており、結核を原因とした肋膜炎の跡が見つかったためでした。

一度は安心した嘉子さんたちですが、それから一年ほどすると再び召集令状が届きます。

この時には芳夫さんも召集を免れられず、出征することとなりました。

芳夫さんの無事を懸命に祈っていた嘉子さんは、ある日、親友とともに「それぞれの夫が必ず無事に帰ってくるおまじない」をしました。

そんなおまじないの効果があってか、親友の夫は病を患いながらも無事の帰還を果たしました。

芳夫さんも、病を抱えていたものの終戦の翌年1946年には他の病人たちとともに帰国船で日本に帰還しました。

しかし、芳夫さんは長崎の陸軍病院で危篤となり、嘉子さんや芳武さんと連絡が取れないまま亡くなってしまいます。

1946年5月23日の出来事でした。

後で知った夫の死を、嘉子さんはたいそう悲しみました。

泣きすぎて、顔が紫色に腫れあがってしまうほど泣きはらしたと言われています。

さらに、夫の死の後、嘉子さんの両親も立て続けに病でこの世を去ります。

嘉子さんは幼い弟たちと息子を抱え、シングルマザーとして、そして一家の大黒柱として家族を支えて生きる道を歩み始めることとなるのでした。

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【虎に翼】 寅子のモデル|三淵嘉子さんは戦うシングルマザー!

戦後、シングルマザーとして家族を支えることになった【虎に翼】のモデル・三淵嘉子さん。

一家を支える立場となった時、嘉子さんは自分のキャリアについて改めて考えました。

そして思いついたのが、弁護士ではなく裁判官になる道でした。

当時、女性には裁判官への応募資格がありませんでした。

しかし、男女平等が明記された日本国憲法も交付されているため、司法省は「女性を裁判官として採用しない」という決断は下せないはずだと嘉子さんは考えます。

そして、裁判官採用願を提出しました。

でも、嘉子さんは人事職員により「今すぐ裁判官になるのは諦めなさい」と、説得されてしまい希望はかないませんでした。

しかし、将来的に裁判官になることを見据えて司法省の民事部で勉強するべく、官吏と同じ立場で働くチャンスを獲得します。

当時、女性がこの立場で仕事をする機会が与えられたことはなかったため、嘉子さんは新たな道を切り開いたと言えます。

ここで、嘉子さんは民法の改正に携わることとなりました。

1948年1月(33才) 嘉子さんはその後、人事異動を経て家庭裁判所の発足に携わることとなります。

発足から間もない最高裁判所の決定で設立された家庭裁判所でしたが、家庭裁判所自体は決して恵まれていたわけではありませんでした。

家庭裁判所を担当する部署である家庭局のオフィスは、最高裁判所の屋根裏に配置されてしまい、最高裁判所内でも冷ややかな視線を送られていたといいます。

それでも嘉子さんは仲間たちと共に懸命に仕事に励み、東京家庭裁判所の建物の完成を見届け、その普及活動にいそしみました。

また、家庭裁判所の本場でもあるアメリカへの視察にも嘉子さんは参加しました。

その後、『女性裁判官のキャリアルート=家庭裁判所』となることを危惧した嘉子さんは、あえて家庭裁判所を離れて地方裁判所へと異動します。

1952年12月(38才) 、判事となった嘉子さんは名古屋の裁判所に赴任。

東京地方裁判所と東京家庭裁判所の判事を兼務するという形で家庭裁判所に戻ります。

それから15年以上が経過します。

1972年6月(57才)嘉子さんは、新潟家庭裁判所長に任命されます。

それは、女性初の裁判所長が誕生した瞬間でした。

【虎に翼】 寅子のモデル|三淵嘉子さんの再婚相手は乾太郎さん

女性初の裁判長として活躍する【虎に翼】のモデル・三淵嘉子さん。

虎に翼 モデル三淵嘉子さんと夫・乾太郎さん

実は裁判長として忙しい日々を過ごしていた中で嘉子さんは再婚しています。

1956年8月(41才)の出来事で、嘉子さんの再婚相手は、三淵乾太郎(みぶち かんたろう)さんという、当時の最高裁調査官を務めていた方でした。

乾太郎さんのお父さんは初代最高裁長官の三淵忠彦さんです。

嘉子さんも乾太郎さんも連れ子のいる再婚同士でしたが、夫婦仲はとても良かったといいます。

また、仕事柄、別居婚となることもあったようですが、それでも夫婦関係はいたって円満だったようです。

新潟家庭裁判所長として新潟に赴任したのち、嘉子さんは浦和家庭裁判所長を経て、最後は横浜家庭裁判所長として定年まで勤め上げました。

【虎に翼】 寅子のモデル|三淵嘉子さんと再婚相手と亡き夫

再婚相手の三淵乾太郎さんと円満な夫婦関係を築いていた【虎に翼】のモデル・嘉子さん。

一方、最初の夫であった和田芳夫さんのこともずっと大切に思っていたようです。

一人息子・芳武さんの前では、亡夫・芳夫さんが恋しいだとか、寂しいという様子はおくびにも出さず、悲しむそぶりも見せなかったといいます。

しかし、嘉子さんの同僚の一人は語っています。

ある日の事、嘉子さんの家に招かれて食事をごちそうになったそうです。

そこで、初めて彼女の身の上話を聞かされたそうですが、その際に「夫が大変な時に、自分は家の中に大量発生していたノミ取りに必死だった」という趣旨の話をしたといいます。

そして、いつも微笑を絶やさなかった嘉子さんが、珍しく涙を見せた瞬間だったと話しています。

また、晩年の日記には、公園にて亡夫・芳夫さんが召集された後に嘉子さんと親友でおこなった、それぞれの夫が必ず無事に帰ってくる『おまじない』をしたことをつづっています。

さらに、映画『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』を見たときにつけた日記にも、芳夫さんとのエピソードを記しています。

芳夫さんの出征前に嘉子さんは、もう一人子供がほしい、と芳夫さんに懇願したことがあったそうです。

残念ながらその願いはかないませんでしたが、映画を見てその時のことや気持ちを思い出してしまったそうです。

長年の片思いだったという背景も踏まえると、嘉子さんがいかに一途に芳夫さんへの思いを寄せ続けていたかが分かります。

そして、嘉子さんの前夫へのそんな思いもすべて受け止め、乾太郎さんは嘉子さんに深い愛情を注ぎ、彼女を支え続けたといいます。

【虎に翼】 寅子のモデル|三淵嘉子さんの晩年

朝ドラ【虎に翼】のモデル・三淵嘉子さんは、引退から4年後の1983年元日(68才)の時に、初詣の神社で、生まれて初めて『凶』のおみくじを引きました。

その年、嘉子さんが『がん』に侵されていることが判明します。

嘉子さんは懸命に治療に励みましたが、残念ながらその翌年に息を引き取りました。

1984年5月28日、享年69歳のおだやかな旅立ちでした。

最期の瞬間には、一人息子の芳武さんも立ち会いました。

いちずに法の世界を志し、女性法律家として先頭を走り続け、いちずに家族へ愛情を注ぎ続けた嘉子さんの生涯は、これからも日本の文化史に残り続けるでしょう。

【虎に翼】 寅子のモデル三淵嘉子(みぶちよしこ)さんは一途で奥手な才女!|まとめ

話題の朝ドラ【虎に翼】ヒロイン寅子のモデル・三淵嘉子(みぶち よしこ)さんの実話をご紹介しました。

虎に翼 寅子

ただの法律家としてのキャリアにとどまらず、女性の可能性を広げるために自らが道を切り拓いた旅でもありました。

彼女が残した影響は今もなお法曹界はもちろん、すべての分野で活躍する女性たちの共感を得ています。

三淵嘉子さんをモデルとした朝ドラ『虎に翼』は、時を超えて多くの人々に感動と希望を与えてくれることでしょう。

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