「アンパンマン」を生み出したやなせたかしさんのそばには、妻・小松暢さんの姿がありました。2人がどんな出会いを経てどのような結婚生活を送っていたのか、気になるところです。この記事では、やなせさんと妻暢さんの出会いから2人の感動エピソードを紹介します。
🔳職場で出会った2人
やなせさんと暢さんは戦後の1946年、高知新聞社で出会いました。暢さんは同社初の女性記者として、『月刊高知』の編集者を務めていました。男勝りのハチキンな性格の暢さんに、華やかな女性がタイプのやなせさんは惹かれたといわれています。とくに仲間と鍋を食べてやなせさんが食中毒になった際、暢さんが献身的に看病したことが、2人の距離を縮めたそうです。やなせさんは、暢さんの優しさに心を打たれました。
暢さんが転職をきっかけに東京へ旅立つと知り、やなせさんも追いかけるように1947年に上京。やなせさんの作品が受賞した賞金で食事に行った際にプロポーズして、2人は結婚しました。やなせさんは暢さんを「おぶちゃん」と呼んでいたそうです。
🔳献身的な妻
やなせさんは、仕事以外のことをすべて暢さんに任せるほど信頼していました。暢さんの存在は、やなせさんの漫画家としての成功に不可欠だったといえるでしょう。
結婚後、暢さんはやなせさんが仕事に集中できる環境を作り、散髪も行っていました。さらにやなせさんが三越を辞めて漫画家として独立するかどうか迷っていた時には、「私が支えるから」と力強く励まし、背中を押しました。
2人の間に子どもはいませんでしたが、やなせさんは「アンパンマンが私たちの子どもだ」と語っています。暢さんの男勝りな性格が、ドキンちゃんのモデルになったともいわれています。暢さんの存在がやなせさんの創作に影響を与え続けたのです。
しかし1988年、「それいけ! アンパンマン」の放映が始まった年に、暢さんは乳がんが発覚し、余命3カ月と宣告されました。手術や治療で一命を取り留めたものの、体調が悪化し、1993年11月にやなせさんの手を握りながら亡くなりました。
🔳妻の死とその後
やなせさんは最愛の妻を亡くした後、大きな喪失感を抱えながらも創作活動を続けました。
暢さんは生前に「頑張っている姿を見るのが好き」と話していたため、90歳を過ぎるまで積極的にメディアに出演していました。
暢さんが自宅で開いていた茶道教室の部屋は亡くなった後もそのまま残されており、やなせさんの妻への想いが伝わってきます。さらに暢さんの死後、やなせさんは自身と妻の墓を故郷である高知県香美市の「やなせたかし朴ノ木公園」に建てました。暢さんの遺骨は、やなせさんが暮らしていた東京と高知に分骨されましたが、これは「すぐに会いに行けるようにしたい」というやなせさんの希望によるものでした。
やなせさんにとって、暢さんは生涯の支えであり、人々に勇気と希望を与える作品を生み出す原動力だったのです。